HARMONYNEWS 1998 秋
ハーモニー・インターナショナル・ニュースレター No.19
男と女の愛のかたち
バラル 博子
HIC会員
人生を季節に例えて中国人は青春、朱夏、白秋そして玄冬と言う。"男と女の愛の形"という今年のニュースレターの題は、いかにも朱夏の女達が多いハーモニーにふさわしい。私はさしずめ白秋から玄冬の季節に属することであり、一人の男と31年もひたすら連れ添ってきた女でもある。近年いささか我々夫婦も枯れてきたようで、今や愛の形は"同志愛"に近いように思う。これでは拙文を読んでくださる方々にはいかにも退屈ゆえ、現在私のまわりで最もホットな男と女の話から始めよう。
この男40才、我々夫婦が最もその将来に期待をかけていた優秀なるエンジニア、真面目で働き者、7才年上ではあるが賢い女と彼は20才で結婚、かわいい女の子がふたりいて郊外に移り住んで18年、絵に描いたような幸福な家庭を営んでいた。彼の欠点と言えば直情径行型であること、背も高くハンサムであること、なぜハンサムがよくないかですって?女たちにモテますわね(クリントン氏の悲劇の例もあるじゃないですか)。
会社の出張で韓国に行った時、最初の2ヶ月は家族が恋しくてやせ衰えるほどだった彼が、現地の女の子と恋に落ちたというニュースが伝わって来た時は誰も信じることができなかった。やがて帰ってきた彼の変貌ぶりに嘆き悲しむ妻に、彼は言った。
「彼女とのことはけっして一時の浮気ではない、彼女に会って人生の価値観が変わってしまったのだ、償いは必ずする、申し訳ないが自由にしてほしい」
と、スーツケースをひとつ持って出て行ってしまった。この男はその後どれほど人に誹りを受けようが、非難されようが、ひたすら愛人におぼれて、あまり追い詰めると何をするか分からないといった状態になった。その女も儒教の教えがまだまだ厳しく残っている韓国の地方出身にもかかわらず、親も国も捨てカナダへ出て来てしまった。
それから2年、まだ彼の離婚が成立していないけれど、今このふたりは小さなアパートで片時も離れられないというような蜜月の時を過ごしているようだ。しかし、このふたりがたとえ無事に結婚しても、何年もしないうちに、男は裏切った妻や子供たちへの贖罪を考え悩むようになるだろうし、女にも『あれほど潔く妻子を捨てた男だもの、私もいつかは捨てられないかしら』と不安がよぎるのではないだろうか。裸で家を出て、全ての収入の半分は妻子を養うために容赦なく取られていく。自業自得とはいえ、貧しさもこのふたりのこころをいつしか蝕んでいくのではないだろうか。禁断の木の実は甘いがゆえに、その後に残る苦さもまた格別のものだろう。
人様だけを俎上に乗せては気がひけるので、恥を忍んで私の事も書いてみよう。まだ20代のころ(遠い昔のこと!)この人のためなら命も惜しくないと思い詰めていた日々があった。それまでにも人を好きになったことはあったのに、彼に会って初めて人生を生きたという感覚をもったのだった。
暫くの甘い夢も、彼の心変わりに気が付いた時から、私には地獄の苦しみが始まった。その怒涛のごとく荒れ狂う思いは、人格も理性も社会の掟さえも押し流すほど強いものであった。男が私の知人と外国で結婚するという決定的裏切りをしたことで終わらなければ、私は間違いなく自滅しただろう。しかし長い長い年月を経て、今にして思えば若い日に熱い炎に身を灼いた覚えがあるからこそ、私のように移り気で激しい性格の人間にしては『結婚』という静かな愛の形を大切にしているのかもしれない。
愛が不毛の時代、愛というものが混沌としているのが今の世の中だと思う。日本で社会現象にまでなったという"失楽園"(そのどぎつい内容にはへきえきしたが)、つまるところ愛は心中という形でしか完結しえない、という作者の思想に人々はどこかで納得するものがあったのだろう。また何度も観たと言う人がいる"タイタニック"(私でさえ3度も観た)、今世紀最高といわれるハイテクを駆使したその大掛かりな作品にも驚いたけれど、主演のデカプリオが扮するジャックが、ローズを死を賭けて救うその純愛に、人々は心打たれて涙したのだと思う。
オトコとオンナの愛の形についての定義は、人それぞれに違うと思う。しかし人は愛さずに生きていけない。それゆえに愛は人々が永遠に追求するテーマであり続けるのだろう。
『日本人の愛と死』− 心中考
布施 豊正
ヨーク大学名誉教授−自殺学
日本人の自殺の特徴の一つに心中がある。複数自殺としての心中は、大別して情死と一家心中(それは更に父子心中、母子心中に分類され、次に合意か無理心中かで別けられる)にわけられる。情死は愛人(異性または同性)を含む自殺であるが、日本の文化史を通して階級制度と人間関係が厳しく規定されていた徳川時代に多く見られた。当時の近松門左衛門の160に近い戯曲は、歴史的ロマンと義理人情の絡み合った悲劇に大別されるが、悲劇の多くは心中物であった。彼の悲劇に登場する人物は徳川時代のあらゆる社会階層の男女を含み、義理人情ときびしい社会の掟との板ばさみになって自殺してゆく物語が殆どである。「曾根崎心中」(1702年)、「心中天の網島」(1720年)などは、この日本的な「板ばさみのジレンマ」を実に良く描写している。
然し、このような合意心中(情死)は、封建社会の掟や慣習から解放されたはずの戦後の日本でも見られるのである。富士山麓の樹海でこの世で結ばれない愛を来世で結ぼうとする心中(情死)が今もって後をたたない。だから今でも時々警察と自衛隊の共同捜索隊が富士山麓のうっそうとした樹海をかきわけ、心中した人々の死体を収容している。私自身、富士山麓の近くの医科大学で自殺学の講演をしたあと、数人の精神科医の案内でその樹海の中を見学させてもらった事があるが、奥深く入る捜索隊員達は、死人の婚礼の晴着を見て、この世で果たし得ぬ愛の契りをあの世で果たそうとした男女の遺体に涙を誘われるという。
愛人、家族の同意を得ての自殺が合意心中であり、同意なしに相手を先に殺し、その直後自殺するのが無理心中である。だから無理心中は他殺と自殺の複合型で、日本のみならず外国にも見られる。北米では、自分を離れてゆく妻や愛人を殺し、その直後自殺するという男性による無理心中がよく見られる。それに対して、日本人によく見られるのは母親(そして妻)による無理心中である。母性社会といわれる日本の一家心中の80%以上が母子心中であるという事実は注目に値し、心中という美化された言葉よりも「子殺し自殺」とはっきり言うべきであろう。
母子心中は夫が不在中の日中に起きる率が最も多く、子殺しの対象となる子供は大多数が4才以下の幼児である。その原因は80%までが夫婦や嫁姑のあいだのおとなの問題であり子供とは関係のないことが圧倒的に多い。子殺し自殺(母子心中)の母親の特徴としては、25才から34才までの若い母親が多い。13才以下の子供を殺すというのは、米国では全殺人総数の4.3%にすぎないが、日本の場合、殺された子供の絶対数こそ少ないが、13才以下の子殺しは全殺人総数の25%という異常な高率を示している。
母親による子殺し自殺(母子心中)は20世紀に入ってから多くなった。更に、戦前の日本の一家心中は貧苦が圧倒的な原因であったが、戦後の繁栄した日本では、家庭不和、家庭不安定、母親の情緒障害による子殺しが多くなってきた。農村人口の大都会への急速な移動により、地方から移住した男女は両親、親戚、友人達から切り離されて都会という真空地帯におかれる。このような真空状態は新移住者の妻=母親にもそっくり当てはまる。アパートや公団住宅、郊外の新興住宅区などに住む核家族は一種の疎外集団であり、主婦を孤立させる要素が強い。育児の問題、家事全般の切りまわしなど全て一人でしなければならない主婦にとって頼るべきものは、か弱い自分のみである。この点、家庭の外で働く主婦には自殺や子殺しが非常に少ないという事実は注目に値しよう。子供を育てることにしか自己実現の欲望を持たぬ母親は、子供の溺愛に陥り、自己の人格と子供の人格を切り離して考えられなくなってくる。だからこそ、子殺しをする母親の殆どが子殺しを殺人と考えていない、という所に溺愛的母性社会の危険性と盲点がみられる。そしてその中に、日本型「愛と死」の大きな矛盾と弱さがにじみ出ていると考えられる。数件の「子殺し自殺」(母子無理心中)を生んだ北米の移住者社会の大きな課題の一つでもあろう。
「愛しすぎる女」から「愛する女」へ
穂積 由利子
翻訳家
クリントン大統領の女性スキャンダルを見ながら、ヒラリー夫人の心境に思いを馳せている。この前ある週刊誌を見ていると、「もともとアメリカの偉大さは赦すことにある。ヒラリーが赦せるなら、我々がどうして赦すことが出来ないのか。」という意見が出ていた。ヒラリー夫人が今回の夫の醜聞にどう対処するかは、まさにアメリカ国民の総意を左右するのだ。
私のヒラリー夫人観は「愛しすぎる女」である。彼女がどんなに夫を支えて来たかは私がここで言うまでもない。ヒラリーがいなかったらクリントン大統領は誕生しなかったといわれるほど、彼女すべての面で彼の筆頭アドバイザーであり、運命共同体だった。つい最近まで彼女は、度重なる女性関係の疑惑に対して断固として夫の正義を信じ、政敵の罠だと主張した。私など、事実はどうあれ、その姿にきりりとしたある種のすがすがしささえ感じたものだ。
しかし私は、彼女はもう「愛しすぎる女」を降りたのではないか、と感じる。もう彼女は夫を支えきれなくなった。そう見えるのは私の錯覚だろうか。クリントンがスキャンダルの渦中でもまだ笑い顔を見せるのとは対照的に、ヒラリーの表情は疲れて硬く、悲しそうな優しささえかいま見える。今まで見せていた夫を支える、自信のある、しっかり者の「大統領の妻」の顔ではない。
「愛しすぎる女たち」(読売新聞社)を書いて「〜すぎる女」という言葉の流行の元をつくったロビン・ノーウッドは、まえがきでこう述べている。「私が『愛しすぎ』の本質を理解するようになったのは、男性のクライアント(注:この場合はアルコホリック)の妻や恋人を通してだった。彼女たちの経歴は次のようなことを雄弁に物語っていた。彼女たちがパートナーの救済的役割を果たす過程で経験する、優越感と苦痛の両方を、彼女たち自身がいかに求めているか、また、何かの中毒患者であるパートナーに、彼女たちがいかに『中毒』しているかを。」
つまり、アルコールやギャンブル、女性、仕事などに嗜癖(依存)する男性の側で、彼らを救おうとして必死になっている女性、彼女たちはもともと内面に不安や空虚感を抱えてそれをコントロールしたいのだが、依存症者をコントロールすることに嗜癖して、もう一人の「愛しすぎる」という依存症者になるのだ。この時二人の間に出来上がるのが共依存という縛り合う人間関係である。
私はヒラリー夫人が本当に空虚感を抱えているのかどうかは知らないが、どうも彼女を見ていると、女性嗜癖を持った夫の不始末を懸命に取り繕っているけなげな人という感じがする。しかしアルコール依存症の夫を持った妻がその夫の世話やきをすることでますます悪化させるように、彼女の行動も、少しも夫の問題の解決になっては来なかったようにみえる。
紙面が限られているのでこれ以上のことは書けないが、私はヒラリー夫人のことを書いたのではない。私は、大統領夫妻が本来寂しさや不安を満たしてくれるべき愛のある人間関係を「愛する人」との間に得られなくて、その空虚感や不安や寂しさを、仕事、アルコール、情事、子供、ギャンブル、買い物、などで満たそうとしている現代人の象徴のように見えたことを書きたかったのだ。そして、内面の空虚は自分を愛することが出来なければ決して満たされないこと、自分を愛することが出来なければ相手を愛することも出来はしないことを言いたかったのだ。
最後に、最近出席したセミナーで知った自分を愛し始めるために有効な自己暗示の言葉を紹介する。自分を責めたくなった時、罪悪感を感じた時、いやになった時、自分に向かって言ってあげてほしい。毎日何度か繰り返すと良い。もちろん男性にも有効です。
「私は、どんなに私を理解できなくとも、私をそのまま受け入れ、愛しています。」
可愛い悪女
勝谷 由美子
HIC会員
一般的な見方であると思うが、50代にもなると、私達は愛情の形の変化に少しずつ気づき始める。50代と言うと語弊があるかも知れない。昨今、私自身が感じ始め、また友人の愛情問題で色々と考えさせられる機会が増えて来たためかも知れない。
高校を卒業する時、私は何人かの親しい先生に、私のために何か一筆書いて欲しいとお願いしてまわった。どの先生も皆快くオーケーして下さって、次々に私を呼んで思い思いの内容のものを手渡して下さった。当時の先生方は割合年齢が若く、私達17、8才の女学生にとっては、憧れの的であったり、批判の的であったり、とにかく賑やかな女学生達の話題の中心であった。学校の授業やクラブ活動以外でも、お食事や音楽会、キャンプ、ハイキング等へグループを作っては先生方とよく出かけた。そんな事もあってか私達は、先生と生徒と言うよりも先輩、後輩と言うか、むしろ年上のお友達という間柄のようにさえ感じていた。
別れを惜しむ長い手紙を書いて下さったり、またある先生は人生の教訓を沢山並べて下さった。最後の方に取っておいた私が一番気になる先生からの原稿用紙を胸ふくらませてそっと開いてみると、「男を困らせない女は魅力がないよ。」先ず、そう書き出して、ツラツラと原稿用紙4、5枚にわたり魅力的な女性になるための秘訣(?)が書かれてあったのである。では細かい部分を思い出せなくて残念だが、その先生が教え子達に贈る言葉として常々考えていて下さった事なのかも知れないと思い、非常に感激した。親の立場から見たら、女学校の教師が生徒にこんな言葉を贈る等とんでもないと怒るかも知れない。しかし、私にとってはとても役に立ち、色々と目覚めさせて戴き、今でも感謝しているのである。「女性はある時、程よく悪女であれ」と教えていた。どういう訳か私はその部分を胸にしっかりと刻み込んでしまった。
父を戦争で亡くしてしまっていた私は、父母の愛情のやりとりを観察する機会がなかったためか、友人達と比べると、私の男女間の愛情に関しての目覚めはずっと遅い方であった。若い頃の私は、先生のその言葉を胸にしまい思い悩んでいた。大抵の事は解らなければ直ぐに質問していた私であるのに、この事に関しては何故か恥ずかしさが先に立って、口にすることが出来ずにいた。そのうち、主人と知り合い結婚した。勿論、それからも先生の言葉はしっかりと胸にしまってあった。
ただ悪女といっても、本当に害をもたらすいやーな悪女とエンジェルのような「可愛い悪女」がある。少しだけ我儘を言ってみては後で夫の反応をみてたっぷり愛情を表す。愛情の糸をピンと引き合って、向う側の相手の存在を確かめ合う。私はそんな可愛い悪女にちょっとだけなってみようかなと思った。ハイハイ女房は、夫のエゴを満たすだけで長い目で見ると本当のベターハーフにはなれない。縁あって夫婦になったのだから、二人で一緒に考え、そしてアクションを取って人生の勉強をし、成長してゆきたいと思う。夫婦の間で演じる可愛い悪女、それは適当に夫に刺激を与え、喜びももたらす健康なラブゲームである。勿論、先生の言葉のように「ある時、程よく」を守らなければならない。
つい最近、私の友人に困った事が起きたのである。友人の夫に若い過激な可愛い悪女が出現し、あっという間に夫は彼女に魅せられてしまったのである。聞けば30年間も培った愛の巣をトルネードの如くムチャクチャにかきまわし、夫をさっと連れ去ってしまったのである。残された妻と娘は事の成り行きに唖然とし、そしてくやしさに泣きわめき、混乱し、途方にくれている。夫の言い分はといえば、当年56才になり、「もっともっと若さを保っていたい。彼女と居ると自分に若さを感じさせてくれる。」とか。
女性は50代にもなれば誰でも更年期を迎え精神的にも肉体的にも色々な障害に出会う。そんな時こそ、やさしい夫の理解と愛情に支えられ二人でその波を越えてゆくべきであるし、男性の場合でも更年期とは言わないまでも、やはり女性と同じように50代ともなれば色々な変化がやって来る。そして、若さを保つのに躍起になる様子もよく解る。しかし、誰でも年は取るもの。年を取ったら、それなりの喜びや楽しみを見い出すものではないだろうか。川の流れのように何にも逆らわず、何かに無理にしがみつかず、スムーズに平安な心で生きたいものである。
私自身の今の生活の中では、先生のあの言葉はもう身についたのか特に意識しなくなっていたが、今回、友人のこの一件で考えさせられ、久々に先生の言葉を思い出したのである。人は結婚後、ただ敷かれたレールの上を淡々と走っていただけで、お互いに好きな事をして暮らして来た。二人の共通の遊びや楽しみは特にない。食事もまるで異なるタイプのものを好むとか。そんなに共通のものがない人同士が何故結婚したのかと聞けば、仕事を通して知り合った二人で、それが二人の楽しみであったが、彼女は家庭に入り子育てをし、安定した暖かい家庭を築いていたつもりなのである。そこに現れた過激な「可愛い悪女」の話を聞き、元々赤い糸で結ばれていたふたりなのかなと何となくカルマ的つながりを感じていた。とにかく、友人が何とかこの大波を上手に乗り越えて、彼女の魂の成長に役立てて欲しいと願っている。
あれから3ヶ月ほどして、友人に会うと、驚いた事に事態は一変して、何とその若い悪女は気に入った就職先がみつかり、他の地に移ってしまい、彼女と居たいがために30年という歴史のある家庭を捨てて行った彼が、今度は一人ぽっちになっていたのである。もう家へは戻れない。娘からは「もう、私に会いに来ないで。」と言われ、愕然としている。彼にとっても今までの自分の生き方をじっくりと反省し、新たな自分を意識して、人生を創り出さなければならない時が来たのかも知れない。こんな状態になる前に、もっともっと前に先生の言葉をこの友人に分けてあげたかった。「女性はある時、程よく悪女であれ」と。「可愛い悪女」はエンジェルなのだから…。
オアシスの仲間たち
佐々木成喜
トロント移住者協会理事
カナダに住んでいると、時々は日本へ行きたくなります。日本へ帰ってもしょうがないとおっしゃる方もありますが、私はやはり日本でおいしいものを食べるとのと、友達に会うのが楽しみですね。カナダに来る前に、十何年か、あるいは何十年か日本で生きてきた人生のあり方に応じて、人それぞれにいろいろな友達が日本にいると思いますが、私の場合は、日本にいる娘夫婦とか従兄弟たちは別として、友達としては中学、高校の頃の仲間が一番です。終戦直後の旧制中学がそのまま新制高校になったので、同じ校舎で同じ仲間と、中学時代と高校時代を過ごしたのです。新潟県の柏崎高校です。
その頃一緒に学校新聞を作ったり、演劇をやったりした仲間十人ほどが大学を卒業して間もなく、「オアシス」という同人雑誌を作りました。毎年一回だけの雑文集ですが、一度も途切れずに今年で第38号になります。表紙は絵を描くのが好きな男がいて、彼が毎回スケッチを提供します。印刷ができると(最初の頃はガリ版でした)、その年の幹事が招集をかけて、東京か、東京と新潟との中間のたとえば湯沢温泉とか信州などに集まります。
私は三菱銀行に勤めている間も海外勤務が半分、日本でも関西勤務が二回もありましたし、転職後は北米ですから、オアシスの会に出席できたのは半分もありませんでしたが、文集を通じて仲間との心の交流はずっと続いていましたし、日本へ行けば必ず誰かが号令をかけて集まってくれました。
この仲間は文字通り五十年の旧友ですが、そこは日本のこと、集まっても男だけでした。ところが、これが昨年になって変わったのです。昨秋私達夫婦は一ヶ月半ほど日本に滞在しましたが、その時に私達のために開いてくれたオアシスの会について、私が夫婦同伴で集まろうと主張したのです。場所は信州の別所温泉の古い旅館でしたが、夫人づれが二組現れました。飯塚と藤田というのですが、この二人は数年前に脳卒中でたおれ、リハビリで何とか、杖をつきながら出歩けるようになったのです。一人では無理あるいは心配なので、夫人が付いてきたというわけです。
こうして会に出席できるようになるまでに、二人の夫人は相当苦労したに違いないのですが、二人ともけろっと明るく、男達と一緒の温泉旅館の宴会を楽しんでいました。その後東京に帰ってから、別の二人が夫人づれで夕食を共にしてくれました。「夫婦で付き合おうよ」という私の主張がすこしずつ実現したわけです。
中学高校以外の友人についても、やはり最近すこしずつ変わってきたようで、労働組合の役員をしていた頃の仲間が、夫婦でナイアガラ旅行の時にわが家に寄ってくれたことがあります。この夫婦とは東京でも四人で食事をするようになりました。トロントで知り合いになった駐在員で彼らが帰国後も日本で付き合ったり、トロントへ訪ねて来てくれたりする友人もいますが、この人達とのお付き合いは大体夫婦単位ですね。
さて、話は戻って、信州の温泉に初めて夫人連れで現れた飯塚ですが、この夏に夫婦でトロントへ訪ねて来てくれたのです。わがアパートの一階のゲストルームに泊まって、ナイアガラへ行ったり、CNタワーに上ったり、飲茶を食べたり、夫婦二組四人で楽しい日々を過ごしました。飯塚は碁が趣味で、アマチュアでは最高の五段の持ち主ですが、彼が倒れてから、夫人が彼にあわせて碁を習い、今や初段の腕前です。(初段というのは、結構高い水準で、そう簡単に取れるものではないのです。)毎日夫婦で五回は手合わせをするそうです。旅行中も磁石付きの携帯用の碁盤を持って歩いていました。碁を本気で習っただけでも、彼女の思いやりが分かりますが、素晴らしいのは、愛を押し付けず、目立たない姿で彼を助けていることでした。
日本式の朝ご飯をわが家で食べてもらったのですが、彼は左手が不自由ですから、右手だけで食事をします。お茶碗と箸の両方は持てませんし、味噌汁なども片手では飲みにくいのです。隣に座った私がつい、いろいろ手伝ったりするわけですが、彼女はにこにこして、見ていても手助けはしないのです。その方が本人のためなのだそうです。さらっとしたものです。
この二人がさりげなく助け合いながら、生きている姿を見ていると、つい感動して涙が出て困りました。苦労を乗り越えた結果なのでしょうが、彼らはごく当たり前のようにして、生きているのです。お互いの愛は水のように、滑らかに通い合っているようです。彼の口からは「ありがとう」の言葉が自然に流れ出ていました。どういうわけか、日本人男性はこれが下手ですからね。私なども、妻に「ありがとう」をいうべき機会が、毎日数え切れないほどあるのですが、なかなか口から出てこないで困っています。これでも少しはましになった方で、若い頃はもっとひどかったですね。
飯塚夫婦はNTTをリタイアして、最終勤務地であった長野市に住んでいますが、来秋は私達が訪ねて行って、信州各地を案内してもらい(夫人が車を運転するのです)、再来年の夏には、もう一組オアシスの夫婦を誘って、カルガリーで落ち合い、私がバンを運転してロッキーを案内する約束です。今から楽しみです。
不可思議なもの、それは「愛」
サンダース宮松
敬子
HIC会員
この何ヶ月の間、メディア関係に毎日名前の出なかった日はなかった人たちといえば、言わずと 知れたビル・クリントンとモニカ・ルウィンスキーの2人だろう。
驚くほど情報網の発達している昨今では、スキャンダルの内容は瞬時に世界を駆け巡り、人々 はその詳細を把握することができる。9月中旬に出された事件の報告書は445ページという膨大 なものであったが、インターネットに載せられたため、当然ながら誰でもが容易にアクセス可能であ る。
この事件の一番の核心は、一言で言えば大統領が女性関係に関し「嘘を言ったこと」に尽きる のだが、微に入り細に渡った大統領と若い娘との関係は、まるでポルノでも見ているかのように、 「イッヒッヒッ」「ウッフッフッ」といった思いで一般の人たちは読んだという。
クリントンもここまで追い込まれるとは計算しなかったのか、目の下のたるみや疲労のあまり急激 に増えたように見える白髪が痛々しいほどだが、自業自得の報いといおうか、50づら下げた大の 男の尻拭いなど誰もできはしない。
しかしこのスキャンダルで一番傷を受けたのは大統領の一人娘チェルシーではないかとは、恐 らく誰でもが思っていることだろう。もちろんヒラリー夫人の気持ちもいかばかりかと察するに余りあ るが、何んといっても"あの夫人"のこと、そう簡単には挫け(くじ)けそうにはない。
報告書が発表される以前に示していた夫を支えるがごとくのパブリックでの姿勢と、私生活での 2人の関係は、映画「DAVE」のように、決して同じものではないだろうことは想像できるが、クリント ンが大統領を辞めたら別れるのではないかと予想する人は多い。もちろん妻ならそれで「一件落 着。ハイ、お手を拝借」で終わるかもしれないが、娘となればそうはいかない。いつまでたっても父 娘の関係は続くのである。
現在カルフォルニアのスタンフォード大学の学生である彼女は、モニカ嬢が大統領と関係を持 った年齢とほとんど差がなく、それを思うと父親の愚かさを身に沁みて感じるのではないかと穿って しまう。ましてクリントンはセラピーを必要とするセックス・アディクト(性耽溺症)という病気ではないかとも 噂されている。それが本当か否かは別にしても、この手の話題は口さがない人たちの格好のトピッ クになる。全米のコメディアンたちが、笑いを誘うのに使った材料の最高頻度の記録を樹立したと いわれるほどで、若い友達の間でチェルシーがこの時期をどのように切り抜けているのかと思うと、 同じ年頃の娘を持つ母親としては胸の痛みさえ感じてしまう。
もちろん男と女の関係は予想などつかない、予期しない出会いがあるからこそ心ときめくのであ って、一度好きになれば、年齢も社会的地位もその他諸々のことが関係なくなる例は多い。だから こそ、愛とは不思議なもので常識では考えられない関係も生まれるし、だからこそ、そこから映画も 文学も芸術も生まれるのである。「ロリータ」しかり「痴人の愛」しかり「愛しき情婦」しかりである。
もちろん何もクリントンばかりが"女たらし"というわけではなく、周知のように故ケネディー前大統 領とマリリン・モンロー、故宇野前首相と芸者、トルドォー前首相とリオナ・ボイドなど、洋の東西を問 わず時代を超えて、パワーのある男性と女性たちとの関係は枚挙にいとまがない。 またNYのビジネスマン、ドナルド・トランプもテキサスの石油王ハーワード・マーシャルもギリシャ の故パパンドレル元首相も「糟糠(そうこう)の妻」を捨てて、皆若い奥さんと再婚、再々婚してい る。
もちろん何もクリントンばかりが"女たらし"というわけではなく、周知のように故ケネディー前大統 領とマリリン・モンロー、故宇野前首相と芸者、トルドォー前首相とリオナ・ボイドなど、洋の東西を問 わず時代を超えて、パワーのある男性と女性たちとの関係は枚挙にいとまがない。 またNYのビジネスマン、ドナルド・トランプもテキサスの石油王ハーワード・マーシャルもギリシャ の故パパンドレル元首相も「糟糠(そうこう)の妻」を捨てて、皆若い奥さんと再婚、再々婚してい る。
社会学者によるとそうした権力のある男性によりかかりたいとの思いは、多くの女性の中にある 自然に備わっている性癖で、ゆえに、驚くほど年上の男性と驚くほど若い女性とのカップルが生ま れたり、また"英雄色を好む"の諺通り、昔から社会的地位がある男性には、女性が寄って来るのが 世の習いということになっているそうだ。
たしかに年上の落ち着いた既婚男性は、世間知らずの若い娘にとっては安心と信頼をあたえて くれる頼もしい存在に違いない。モニカ嬢にしても、結果は"暴露"という言葉に等しいものになって しまったものの、最初は世界で一番パワーのある男性と関係を持ったことに心底驚き、そんな自分 に酔いしれながら、もしかしたら結婚も不可能ではないと一途に思ったのだろう。
ナイーブといえば余りにもナイーブだが、たかだか21歳の世間知らずの娘を誰が責められるだ ろう。反面自分の立場を利用して、ひたむきな幼さを弄(もてあそ)んだ大統領という中年男の狡さ の功罪は何といっても大きい。
恋愛は人生の最良の教師であるとは自他共に認めるものだが、このスキャンダルではモニカ嬢 が失ったものは得たものよりもはるかに多い気がする。
しかし、たとえこんな陳腐な間柄でもお互いに好もしいと思い、両者合意の上での関係なら、そ れはそれで男と女の一つの愛の形なのだろう。 誠に不可思議なもの、それは「愛」である。
男と女
武田 真里
HIC会員、マミーズ会長
朝日新聞社が毎年行う国民意識調査は、今年は「男と女
変わる愛の形」と題され、なかなか興
味深い結果だったので、簡潔に紹介すると共に、私の身辺にみる「男と女」にまつわるお話も併せて紹介したい。
『あなたは"結婚"という言葉にどんな印象を持っていますか?』という質問に対する回答は「責
任」を筆頭に「共同生活」「新しい人生」「幸せ」「忍耐」と続いた。女性の回答では「忍耐」が男性の
それに比べ際立って多かった。
次に『夫婦は"一心同体"がよいか?それとも干渉しない部分があるべきか?』では、回答は推測通り後者が7割を占め、"一心同体"が死語となりつつあることを示した。それでも、"死後"は8割が
一緒に墓に入ることを望んでいる。
続いて『"愛情"はどんな形で表すのがよいか?』においては、「家庭内の協力」「ちょっとした気
配り」が圧倒的に多かった。「スキンシップ」や「プレゼント」等の回答が1割にも満たないのは、私の予想に反するところだ。
さて、このアンケートで一番興味深かったのが次の"離婚"について。「離婚してもよい」が全体の
6割で、反対派の2倍。96年には、実際の離婚件数も1899年の調査開始以来最高を記録し、
特に結婚して20年以上たつ夫婦の"熟年離婚"も過去最高となり、離婚全体の16%を占めていた。
それでも、『"子供"が夫婦のなかをつなぎとめているか?』では、イエスが7割強あったので、子供
がいなければこの数はもっと上がっていたかもしれない。
最後に"不倫"について。これは日米比較で表されており、好感のもてる人から不倫の交際を誘
われた場合、日本では3割以上が「心が動くと思う」と答えたのに対し、米国では「全く応じない」が
7割近かった。また、不倫が「どんな場合でも許されない」と答えたのが日本では5割に満たなかっ
たが、米国では全ての年齢層で7割を越え、日本との違いが際立った。
昨年4月から「マミーズ」という新米ママさんの子育てサークルを開始した。日本語を話す母親
の仲間を増やすのが目的で、今では会員も30名余りと大所帯になった。毎月のミーティングでは、
子育てに限らず、"夫婦げんか""家族計画""ストレス解消法"など、できるだけ面白いテーマについて話し合っている。
どんな話題にしても多かれ少なかれ夫の話が出てくる。ちなみに夫は日本人に限らず様々なバ
ックグランドをもつ。空港で出会ったというロマンティックなカップルから、カナダに移住したいがた
めに迷ったあげく夫を利用した形で結婚したカップル(夫もうすうす感じているそうだが、今では子
供もいる)、恋愛当時はアツアツだったのに、子供ができて以来すっかり夫婦仲が悪くなったカップ
ル、そんな状況をおそれて子供を作ろうとしないカップル、今だに毎日、夫が帰るとハグとキスを欠
かさないカップル、結婚3年目にして既に離婚を考えているカップル(ちなみに子供もいる)等々。
中でも、元大家さんのご主人に今でも家賃を払い、何から何までフィフティ
フィフティ50/50と対等な関係を保っている人の話は私達を感心させた。
日本でも近頃、離婚率の増加と共に結婚しない"独身貴族"が増える傾向にあるようだ。また、
"同性愛"に対する受け入れも寛容になりつつある。確かに同性とお茶する方が楽しいし、相手の
気持ちも理解しやすいと思う。でも、せっかく神様(?)がこの世に2つの違う"性"を創造されたのだから、異性と上手に付き合いたい。そして縁あって結ばれ、築き上げた"家庭"なのだから、がんば
って維持してゆこう。かといって一度きりの人生だから、"忍耐"で終わらせるのはもったいない。
永遠のテーマである「男と女」。色々な形があるだろう。こうあるべきだとは言えないが、ひとりの
人に決めたなら、その人と"楽しく"時を過ごしたい。そうするために、"相手を自分と同じ位愛する"
ことを(時には忘れることもあるが!)心がけている。
愛は毛糸のDRAWERS
田中 裕介
「日系の声」 編集者
「男と女の愛のかたち」なんていうテーマで、失楽園にも後楽園にも行ったことのないオジサンはいったい何を書けばよいのでしょう。三日も泥沼にはまり込んだようにもがいていますよ。しまいには、てやんでえ、愛にカタチがあってたまるもんかよ、とふてくされ始めたものです。
そうですよ。[愛]なんていうこの上もなく形而上学的なココロの中身に無理やりカタチを与えようなんてすると、いきなり形而下なカタチが立ち現れてきてしまいます。それはココロの一番感じやすい部分を包んでいるもので、いうならばココロの引き出しにしまわれている下着のようなものです。ですから、ザ・ベイのランジェリーの広告を見ればわかるように、いろんなカタチがあるわけです。それでいて基本的に他人に見せびらかすもんでもないわけで、相手がどんなカタチの下着を、いや、愛をまとっているかなんて分かりませんし、とりわけて興味のないことです。とは言え、電車の中でなんとなく下着が透けて見える女性が目の前に立ったりすると、「あれぇ?」と途端にそわそわしてしまうのはどういうオジサンの心理なんでしょうね。
見えそうでいて決して全貌をあらわにしてはくれないのが愛のカタチで、だから、男と女は狂おしくも求め合うのだな、とか何とか下着のちらしをめくりながら、一人で勝手に納得してしまいましたよ。
実は、僕は女性の部屋に忍び込んで下着の詰まった引き出しを、まるで宝の箱をそっと押しひらくように開けて、息を飲んで見つめたことが一度だけあります。下着ドロボーしたわけではありません。まだ独身の二十代後半だった頃、よく日曜日に一緒にテニスをしていたカオルちゃんと、なぜかその日は僕のアパートで料理を作って二人でおママごとをしようということになった時のことです。彼女のアパートにはシャワーがないので、シャワーを浴びたい、でも、下着の替えがないの、私のアパートまで行って取って来てくれない?と言い出したのです。
正直言って一瞬たじろぎましたけどね、「おっ、いいよ」とかなんとか軽いノリをよそおってバイクにまたがり、僕は早稲田通りを十分ほど走って阿佐ヶ谷の彼女のアパートまで行きました。でも、どうにも女性の部屋のドアの鍵を開けて入るというのは後ろめたいものでした。何故かコソドロのように足音をしのばせてしまうわけです。
大学院に通うカオルちゃんの部屋は意外と質素で、北国育ちには東京の夏はつらすぎると、親が買ってくれたというエアコンだけが1DKには不釣合いに幅をきかせていました。目指したタンスはすぐ見つかったのですが、あれっ?上から何段目の引き出しだったっけ?
取り敢えず一番上の引き出しをそっと開けた時の驚きをなんと表現したらいいのでしょう。
そこはまるで小さなお花畑でした。クルクルと筒状にたたまれた純白やら淡いピンクの花柄の小さな下着が乱れなくきちんと並んでいる有様は、僕の想像力をはるかに凌駕するもので、しばらく声もなく見惚れていました。そして、これが小さなカオルちゃんが毎日とっかえひっかえスカートの下に付けているものなのかと思うと感動すら覚えたのです。言われた通り手前の白いのをすくうように両手で取り出して、他の住人が不審に思う前に早く退出しようとしました。ところがどうしたことでしょう。どうにも、どうにも、僕の足はその宝の箱から立ち去ろうとしないのです。足が勝手に、もうちょっと、もう一段だけ覗いて見ないかと、僕をそそのかすのです。いや、足のせいにしてはいけない。僕はどうにもその好奇心を押しとどめることができませんでした。そして、そっと一段ずつ覗いていったのです。すると、とっても意外なものが出てきたのです。毛糸のズロースでした。おフクロが昔はいていたのと同じ地味な紺色です。冬に洗濯した後、カチンカチンに凍りついたまま物干しロープからぶらさがっていたやつです。面白がって無理やり折り曲げたりすると毛糸が傷むので、「ちょしたらダメ!」とたしなめられた、あの母の限りなくふくよかな下半身を包んでいた毛糸のズロースがこんなところにあったなんて…。
ポーッと上気したままの顔でアパートに戻ると、待ちかねていた様子のカオルちゃんもなんとなくポーッと恥ずかしそうに下着の入ったポリ袋を受け取りました。そして二人は何事もなかったかのようにおママごとを続けたのです。
さて、その後の二人はどうなったか、聞きたくなった?残念ながら、表面的には何もありませんでした。散歩の最中に手が触れ合って、互いにドキっとしたことがあったかもしれません。でも、二人ともあるところでキチッと線を引いて、それ以上は決して近寄りませんでした。その方が、二人の関係に芽生えていた微温のぬくもりを長く楽しめるはずだと、したたかに目配せもせずに了解していたからだと思います。
実はカオルちゃんは、僕の親友の元恋人だったのです。彼の転勤が決まり、婚約を迫った時、彼女は戸惑い、悩んだすえ、とにかく修士を終わらせたい、その先のことは今は考えたくないと断りました。ところが、その亀裂は次にとてもつらい別離を用意していました。彼は未練を断ち切るように、その後、見合いをしてさっさと結婚しましたが、しばらくの間は二人とも、はたで見ていてかわいそうなくらい落ち込んでいました。僕はと言えば、二人の間で「いつも明るい蛍光灯」の役目をおおせつかって聞き役に徹していたわけです。ただ実際のところ、僕にとっても、カオルちゃんとの陰影をつくらない関係を維持するのは実はちょっとシンドイなと、親友との友情をとるか、自分のパトスを全うするかという夏目漱石的「ココロ」のジレンマを悩んだ時期もありました。あの選択が正しかったかどうかなんて誰にもわからないけれど、ただ、男と女の愛のカタチなんて到底その当人同士にしかなぞれないものだと、そうつくづく思うのです。
そして二十年。中年のおばさんになったカオルちゃんは、まだあの紺色の毛糸のズロースを履いているのかな。ちょっと、興味あったりして…。
かなしみと言えば
他から見れば
ただ視線が下方に傾くこと
(永瀬
清子・詩集「蝶の酩酊」)
編 集 後 記
今年のニュースレターのテーマは、HICがこれまでに一度も取り上げたことがなかった「男と女の愛」についてです。快く寄稿を承諾してくださった方たちから、個性あふれる傑作エッセイが集まりました。
興味深い心中考や依存症についての深い洞察、幸せな結婚生活の秘訣や友人夫婦の心温まる愛情物語、思わず吹き出した愉快な毛糸のズローズ逸話、また、身近に繰り広げられる不倫劇からクリントン大統領のスキャンダルまで、いろいろな角度から見た「男と女の愛のかたち」が浮かび上がりました。
朝日新聞のアンケートの結果、不倫に対する回答が日米間で大きな差があったことは、とりわけ興味を持ちました。日本の異常なまでの「失楽園」ブームが何故起きたか、わかったような気がします。
さて、皆さんはこのユースレターを読んで、どうお感じになったでしょうか。
(シェマー ゆみ)
最近「Men are from Mars, Wemen are from Venus」という本を読んだ。本当に目から鱗どころか、それまでの疑問がすっきりしていくのが快い響きだった。男は火星人、女は金星人、ゆえに同性同士ではツーカーなのに、異性同士では誤解はおろか、言葉の意味さえ正確には伝わらない。あーそうか、と思い当たる事が数知れず。本当に読んでよかった。だから同性愛にはしる人の気持ちが何となくわかったようだ。なぜに、人はそんな意志疎通の困難な相手を選び、わざわざ苦労をしょいこむのか?
まあ、そんな事は恋愛中には思いつきもしなかった。「愛」って子孫繁栄のために人の思考を神
様が「ちょっとストップ」させてしまうことなのか。
でも、そんな時として煩わしい男女の愛も、それなしの人生は薄ら寒い荒野の様かもしれない。
(ウインクラー 千鶴)
HICでは、今年からDTP(デスク・トップ・パブリッシング)プログラムを導入して、ニュースレターの枠組み作りから記事や広告のレイアウトまで、一貫してクラブ内で出来るようになりました。
ところが、コンピュータに向かっていると、浮かんで来るのは子供時代の手作り新聞。スリルと実感がありました。大きな模造紙にマジックで書き込んだ小学校の学級新聞。 中学時代のガリ版印刷は、しっかり力を入れないと薄くて読めないし、力を入れ過ぎると原紙に穴が開いてやり直し。鉄筆のガリガリ鳴る音が耳の奥にまだ残っています。
初期のハーモニーニュースは手書きでした。手に取ると今でも創立メンバーの意気込みが伝わってくるようです。私達は便利さの名の下にまたひとつ大切なものを失おうとしているのでしょうか。とはいえ、以前なら郵送か手渡すしかなかったオリジナル・ロゴの鮮明なイメージが一瞬のうちにE-mailで届けられるのを見ると、やっぱり拍手を送る私です。
(コズロブスキー 阿部美智子)
16年前にトロントの日系社会の中に根を下ろしたハーモニー・インターナショナル・クラブ(HIC)は、年毎に少しずつ着実に枝を広げて参りました。枝の広げ方はその年によって異なりますが、常に自己の向上と地域社会への貢献という2点を念頭に置いて活動の計画を立て実施して参りました。例えば今年も色々な催し物に参加致しましたが、特にHICが傘下に属するトロント移住者協会(NJCA)主催のバーベキューとインフォーメーション・ブースへの参加、そして東京キャラバンのおもちゃ売り場でのボランティアは何年も続いています。
またHIC恒例の夏のピクニック、お誕生会、クリスマス・パーティーはメンバー同士の親睦を図る目的で行っています。更に今年は会員のアーティストによるワークショップを開始し、より豊かな人生を送るお手伝いも始めました。その他にもトロント滞在の日本人医師による救急法及び応急手当講習会、訪加中の日本人女性運動家による講演会を実施致しました。
そして11月には日系文化会館の新館工事支援を目的とした現代邦楽、西川浩平アンサンブルによるコンサートで今年度の活動を締め括りますが、世界共通の音楽を通してトロント社会にも私達ハーモニー・インターナショナル・クラブの活動を知っていただければ、と願っております。
今年のニュースレターのテーマは、数学の様に明確な答えが得られない、しかし興味深いトピックであるところの「男と女の愛の形」と決まり、様々な意見や考えが寄せられました。追求すればする程内容が限りなく深くなる「愛」のようですが、HICも今後益々中味が濃く、奥行の深い賢明なグループに発展させていきたいものです。
(ハイド 容子、HIC会長)
[原稿はアルファベット順]
HARMONYNEWS 1997 秋
ハーモニー・インターナショナル・ニュースレター No.18
女性の社会進出 カナダ統計局/HIクラブ調査に見る現状
未だ模索する多くの女性たち
HIクラブニュースレター15周年記念号編集長
サンダース宮松敬子
戦後移住者の女性たちで作るHIクラブは今年創立15周年目を迎え、私達はこれを記 念して、一年間にわたり各種のイベントを行いました。これによって5年前の10周年 に引き続き新たなマイルストンを築きましたが、皆様のご理解とご支援により多くの 活動が出来たことを感謝しております。
また当会では毎年ニュースレターを発行していますが、今年は会員による「女性の 社会進出」についてのアンケートをとり行ないまとめてみました。これは今秋カナダ 統計局が発表した調査とまったく同じ質問を会員に試みた(アンケート回収率90%) のですが、同じカナダ社会に生きる女性としてこの問題をどのように考えているか興 味を持ったことがきっかけです。 確かに時代は今21世紀の足音がもうそこに聞こえる時を迎え、我々は真っ更な新世 紀に向かって邁進しています。日々の生活の中に見る日進月歩のテクノロジーの発達 には誰もが目を見張りますが、だからといって人間の基本的な生き方が大幅に変わっ たとは思えません。それは未だにこの地球を支配している人間には、男と女という性 しか存在しないことが一番の理由でしょう。
しかしそれではその男女のあり方は、そのテクノロジーの進歩ほどに変化したでし ょうか。もちろんこの「あり方」という意味が何を指すかによることは確かですが、 ここまで進歩した社会のその発展の一翼を担う女性の社会進出に焦点を当てて見た時 、やはり大きな「?」マークが付かざるを得ないのではと思います。 カナダ統計局が発表した調査結果は非常に興味あるもので、母親が働くということ のその裏にどんな理由が隠されているにしろ、子供を持った女性が仕事をすることの 容易ならざる面が浮き彫りになりました。一口にまとめると「母親が働いて家庭にダ ブルインカムをもたらすことは、経済面から見て今のカナダの社会では当然のことだ が、一方子供(特に幼児)が心配であることも偽らざる心理である」ということにな るようです。アンケートの答えは、HICとカナダ女性で大幅に異なる場合や、逆に非 常に類似しているなどそれぞれ面白い結果が出ています。また、こうした調査はそれ がどんな目的のために行なわれるものであれ、単に「イエス」「ノー」では答えられ ない側面を持っているため私たちは会員の意見を添えることも試み、加えてカナダ統 計局の調査結果を見たタイム誌のコラムニストの鋭い意見も翻訳して載せました。
HIクラブがこれから20年、30年と続くことを願いながら、その時に、もし今回と同 じ調査をしたら、カナダ社会は、またクラブ会員の意見はどのようになっているだろ うかと思いを馳せています。 皆様のご意見をお聞かせ頂けたら嬉しい限りです。
質問1 働いて収入を得ることは、あなたが幸せであるために・・・
@ 非常に重要である (カナダ女性 18%, HIC 30%)
40代 ・お金があれば重要ではない。 まず、食べていけなければしたいこともできない。
50代 ・一般社会で男女、人種等を問わず、職場で平等に働けるということは非常に大切な 事と思う。
・「働いて収入を得る」という事には大きな責任が伴う。ボランティアなどで社会と つながるのとは別の社会の一員であるという自覚を生む。また、夫と対等の関係が得 られる。
A 重要である (カナダ女性 46%, HIC 35%)
40代 ・遺産でもない限り、誰かが文句無しにお金を使わせてくれるとは考えにくい。経済 的自立は精神的自立と思っている。但し、限られた収入、またはあえて収入を少なく して、自由を持つのも幸せのひとつだと思っている。
・収入を得ることにより経済的にも精神的にも一方的に夫を頼らなくても良く、平等 な土台のもとに家庭を築くことができる。
50代 ・働いて収入があるから必ずしも幸せになると言えませんが、働くという事は生産的 なことをする事を意味している為、そこに自身の満足感が得られると思います。それ に、収入が加味されれば、自分の好きなことをする範囲も広がってきて幸福感をもっ と持ちやすいと思います。
B あまり重要ではない (カナダ女性 26%, HIC 25%)
30代 ・今現在、幼い子供2人を育てているので、一緒にいろいろな所に連れていったり、 お友達と遊ばせたりという、子供にとって嬉しいことや、ためになることが幸せその ものなので、ただ、夫の理解を得られない場合、“収入”がないというのが辛いとい うこともあります。
40代 ・「収入につながる仕事を持つこと」イコール「幸せ」には必ずしもならない。家族が 健康であること、地域のボランティア活動に参加すること、自分の夢に向かって一歩 ずつ努力し近づいていくことが幸せであるための要素だ。
C 全く重要でない(カナダ女性 4%, HIC 7.5%)
・40代である事、幼稚園に通う子供や学校の手伝い等々いろんな意味で時間もエネル ギーも集中して生活していること、そして、勿論生活に困っていないことなどから「・ ュいて収入を得ること」は現在の私が「幸せと感じる」ことには全く関係ありません。子 供がケガをせず楽しく笑って一日を過ごしてくれ、みんなが健康であること、これが まず第一です。今のところ幸せです。
質問2 仕事を持つ母親も、仕事を持たない母親と同じくらい、温かく安定した関係を子ども と築くことが出来る。
・親がどんなに忙しくても、子供との間に強い信頼関係を築くことが出来ると思う。 もちろん、接する時間が短ければ、その分意識して信頼関係を育てる努力が必要だ。 本当に子供のことを思っていれば愛情は伝わるものだと思う。
50代 ・私は母が物心ついた時から働いている生活環境で育ち、幼かった時に寂しさを感じ たことは覚えているが、成長するにしたがって仕事をしている母をとても誇りに思っ た。親子関係は密度の問題が重要。
・子供への愛情は量でなく質です。子供が乳児・幼児の時はコンスタントの保護が大 切ですが、子供がある年令に達した後は、子供と接している時取る母親の態度・言動 が、もっと子供達に影響すると思います。いつも子供が母親から愛情を受けとってい るという確信を与えるのに、いつもべったりする必要はありません。
A 賛成 (カナダ女性 53%, HIC 52.5%)
40代 ・時間が制限されるので、非常に難しいとは思うが、やはり、おのおのの考え方、性 格によると思う。専業主婦、すなわち子供とよりよい関係を築ける・・・という事に はならない。
・時間に制約があると、知恵を働かせて最善をなそうと努力するようになる。自由に 無意識に事にあたっているより、心をこめて重要なものの順にやろうとするので、最 も大事な点(母子の関係など)は、リミットの中にも密度の高いものになるのでは。 子供の方にも有難さと母への思いやりが育まれる。一生懸命に頑張っている母親の後 姿から多くのことを教えられると信じる。それには母親の仕事に対する毅然とした姿 勢が問われるのでは。
・できる人はたくさんいるだろうし、精神的にも肉体的にも、経済的にも余裕があれ ば、充分できると思うが、私は精神的にアクセク振り回され、肉体的にはいつもヘト ヘト、経済的にもやっと何とかやってきたので、とてもそういう関係を築くことはで きなかったが、それは私が人間的にできていなかったからだと思う。
・仕事を持たなくて家にいても、必ずしも温かく安定した関係を築くことはできない 。その反対で、仕事を持っていても、常に子供との関係に心を配っていれば、良い関 係を築くことは可能である。母親の人生に対する生き方にかかわると思う。
50代 ・母親が働くという事は、子供の面倒をみるという点でどうしても手抜きになってし まうという罪の意識を感じた。しかし、子供は親の働く姿を見て、何かを学ぶ可能性 もあるのではないかと思ったりもした。
B 反対 (カナダ女性 20%, HIC 15%)
質問3 仕事を持つことは、女性が独立するための最善の方法である。
・女性が独立するためには経済的にも精神的にも自立することが必要だ。仕事を持つ ことはその両方を達成するための近道だと思う。社会に出ることで様々な人や様々な 価値観に出会い、視野が広がる。良い成果を得ようとして、学習し、自分を磨き、そ の過程で強さと自信を身につけていく。それが経済的な束縛と精神的な束縛を解き放 ち、独立した人間となるための最善の方法だと私は思う。
50代 ・自分の現在おかれている環境に不満を持っている人(女性)も結局は経済的な理由で それから飛び出せないのがほとんどのケースだと思います。いつも自分で自分の人生 を選択出来る為に、そして独立するためには経済的に一人でもやっていける状態、つ まり収入があることが大前提だと思います。
・確かに女性は給料の面では、男性よりずっと低いかもしれないが、何かあった時に 一人立ちできるというのは非常に大切ではないかと思う。
・収入が満足のいく分だけあるかどうかは別として、仕事を持つことは精神的な意味 においても独立するのに大切な事である。
A賛成 (カナダ女性 45%, HIC 37.5%)
・仕事をすることにより、経済的な独立をはかることができ、また労働によって社会 に貢献しているという自覚を持つことができる。
・経済的に独立するためには当然のことだが、共働きの必要のない主婦がボランティ ア活動に関わり、社会との接点を絶えず持っているのなら、彼女は充分精神的に独立 していると言えると思う。
50代 ・仕事を持つことは、家庭(夫や子供)という枠外の世界に自分を置いて見ることが 出来、家の中では気付かなかった可能性を見い出し、又、社会的見識も広くなって、 少なくとも直接仕事を通じて社会に貢献(チョット、大ゲサな言い方ですが)してい るという意味で、自立した(精神面で)物の考え方が出来ると思う。
B 反対 (カナダ女性 33%, HIC 17.5%)
・仕事を持つ持たないにかかわらず、自分が自分の選んだ道に満足していれば、人間 として最善である。宇野千代いわく「私は決して私のきらいなことは、しなかった。 私の好きな事しかしなかったから、何も後悔はしない」。私はこの言葉が大好きです。
質問4 男性、女性とも家計の収入に貢献すべきだ。
・それと共に家事を分担すべき。
50代 ・当然である。その割合がどうかという問題は各家庭によって異なると思うが・・・ 。 又、自分が欲しい物、買った物をいちいち夫に言ったり、知られたりするのは堪えら れない。
A 賛成 (カナダ女性 58%, HIC 42.5%)
40代 ・その時々の状況に合わせて、それぞれが出来る範囲で、貢献するのが望ましい。一 方が病気だったり、失業したり、学校に通ったりする間、もう一方が余分に家庭を支 えて行けるような協力体制が必要だと思う。もちろん、そのためには家事と育児を公 平に分担するのが大前提。
・男性がよほどの高収入を得ている場合を除き、女性も家計の収入に貢献しないと、 安定した家計を保つことは難しい時代である。また、カナダにおいては、常に失業の 恐怖にさらされ、一人の収入に頼るのは不安である。
50代 ・子供が小さい時は(特に、何人もの小さい子供がいる時には)、女性は家庭で子供 の世話する方が良いと思います。というのは、子育ては世界で一番大変な仕事だと思 いますし、他人は母親ほど忍耐力と愛情は注げないと思いますから。
B反対 (カナダ女性 15%, HIC 25%)
30代 ・可能であれば、家計は男性の収入。女性の収入はあくまで、旅行など、補助的なも のに使うべきだと思う。
40代 ・これは夫婦の間の問題である。私達は、今は私が稼ぐ時、次は夫が稼ぐ時と、分担 している。 現在は、夫が大黒柱であるが、10年後は、私が大黒柱となる予定。
C 強く反対 (カナダ女性 1%, HIC 5%)
質問5 両親が働いていると就学前の児童に良くない。
40代 ・これについて言い出すときりはないが、就学前に親が手を抜くと、ずっと子供の全 体的な人間成長に尾をひく。両親が働かざるを得ない場合は仕方ないが、児童に良く ないことは明白である。ひいては社会もそれによって被害を受けることになる。
A 賛成 (カナダ女性 40%, HIC 35%)
・これも両親が「どのくらい働いている」かによる。私の夫が、1年に100日以上海 外出張、私は仕事に熱中して家にあまり帰らず、子供はベビーシッターとメイドが世 話をしていた時期は、子供が0才〜6才半までであるが、非常に子供の発達に良くなか った。もちろん、ベビーシッターは教師の資格のある方であったが、親の代わりには ならなかった。子供には良くないとは理解していたが、当時は私は「子供の面倒を見 ること」に興味がなかったので、そうしていた。
50代 ・就学前の児童は、経済的に許される限り、家庭で見守ってやりたい。他人に預ける のは宝石よりも大切なものを道路にほっぽり出すようなもの。少々の経済的犠牲、キ ャリアの犠牲は子育ての重要さには比較できない。
・残念ながらそうだと思う。が、しかし、母親がそれを自覚し、両親が協力し、努力 してゆけば、働いていない怠惰な母親に育てられるよりは良い。
B 反対 (カナダ女性 34%, HIC 35%)
・両親のどちらかが子供の近くにいてやれることは理想だろうが、いつも一緒にいな くてもそれに代わる手段さえしっかりしていれば、子供はそれなりに順応すると思う 。むしろ他人や他の子供たちと接することにより独立心を養うことにもなる。結果的 に見て、デイケアにいつも預けられていた近所の子供に比べ、ナニーと一緒に家にい た自分の子供たちはとっても考え方が甘いと感じる。最近、日本の共稼ぎの夫婦が、 おばあちゃんに子供を預けたため、甘やかされてわがままに育ち、学校に行き始めて いじめの対象になったという話を新聞で読んで考えさせられたものだ。他人より肉親 がいいとも言えないようだ。
・夫の全面的な協力、良いベビーシッターや保育所に恵まれていれば、就学前の児童 にも安定した生活環境を与えることは不可能ではない。
50代 ・両親が働いていないと児童に良いと、いう逆説は成り立たないと思う。これらの問 題は、両親が働いていようがいまいが、それ自体あまり関係がない、と思う。それよ りも、どのような親子関係が樹立できるかの方が問題で重要だと思う。
・両親が働いていても子供とのつながりを大切にしていれば、心配はないと思います 。多くの時間を一緒に過ごすことが一番大切な事。
C 強く反対 (カナダ女性 3%, HIC 2.5%)
D 分からない (カナダ女性 10%, HIC 12.5%)
質問6 仕事を持つのも良いが、女性が本当に望んでいるのは家にいて子供を育てることだ。
A 賛成 (カナダ女性 40%, HIC 12.5%)
B 反対 (カナダ女性 37%, HIC 52.5%)
40代 ・子育てオンリーが生き甲斐という女性もいるかもしれないが、仕事をすること、ボ ランティアに携わること、社会との接点を持ち続けることなどが必要だと思う。それ が女性の幸せに繋がると強く思う。
・子供はいづれ巣立つものである。母親もやりがいがあるという確信の持てる仕事を 持っている場合、子育てと仕事の両立は可能である。
50代 ・能力、才能のある女性は、仕事を持つべきだ。
C 強く反対 (カナダ女性 4%, HIC 17.5%)
40代 ・自分で選んだ、自分の好きな道を行くこと。そして、自分の欲しい人(つまり夫) を正しく選択し手に入れることが幸せであり、この質問自体が私には全く理解できない。
50代 ・男性中心社会の“母性本能神話”は早急に改めてほしい。男でも女でも子育ては充 分出来るのである。 ・もちろん女性によると思う。しかし子供は必ず大きくなって親元を離れていく。そ の時に、家庭に一人取り残される女性ほどみじめなものはない。女性=子育ての図式 には強く反対。また、皮肉なことに、しっかりとした仕事をしている女性ほど人間的 に面白い人が多い。
D 分からない (カナダ女性 11%, HIC 12.5%)
「女の仕事は決して…… これでよしとされない」
働く女性の役割に関する今回の調査は、男性には質問しないようなことばかり
ほとんどの女性がそうであるように、私も朝は余分な時間があまりない。 でも、ある日朝食をとり、お弁当を作り、二人の子供を学校へ送り出し、自分自身 のキャリアである著述業をやりこなし、「もし上の子を今晩のおけいこに連れていっ てくれたら、私は下の子と留守番するから」などと毎度繰り広げられる夫との活発な 交渉をし、といった超多忙な真っ最中、私は新聞の見出しに釘付けとなってしまった。 『女性の社会的進出がカナダ人を混乱させる』 私は不安になった。世界は現代女性が何たるかを理解しているのに、カナダは今だ にうろたえているわけ? だが問題はもっと大きかった。 11,000人の男女を調査したカナダ統計局の発表によると、小さな子供がいる女性は 家にいるべきか、働くべきかといった事に対して、男女とも「やや矛盾した」態度が 見られるというのだ。 統計では女性の51%、男性の59%が両親が働いていると就学前の子供に良くないと 信じている。その一方で、男女とも過半数が、仕事こそ女性が独立するためには最善 の方法であり、夫も妻も家計を負担するべきだと考えている。 この矛盾した結果は、現代社会のねじれるような苦闘を浮き彫りにしている。つま り、家族の要望と仕事の要求をいかにしてバランスをとるかという苦闘をだ。 女性たちは「仕事はきついし、子供たちのことが心配だし、自分がやっているのは 、これでいいのかよくわからないの。もう疲れて泣きたくなってしまうわ」と日常話 している。 もちろん、女性たちは仕事がうまくいった時や育児の喜びなど、成功を語り合うこ とだってある。 それにしても私が気に入らないのは、この調査の仕方だ。例えば「仕事を持つのも 良いが、女性が本当に望んでいるのは、家にいて子供を育てることだ」というような 質問は、確かに正直な見解ではあるが、性差別的な見方をしているからだ。 この白か黒かというような質問には、49%の男性と41%の女性が同意を示している が、今回の調査では、男性を対象にした質問はひとつもないのである。 明らかに「女性」は人類が存在するこの地球上に含まれるべきなのに、女性自身に さえそれが見えていないらしい。 そして女性は二者択一の思想に、まだ縛られているようだ。金銭が私たちの生活を 動かしていることやフロイト理論(少なくとも彼はこの点では正しかった)―愛と労 働が均等であれば、人は幸せだ―を無視している。 働く母親は16世紀の頃からいた。(働く母親という表現は、ちょっとおかしい。ほ とんどの母親は、夜明けから子供が夜寝つくまでずっと働き続けるのだから。) けれども、こんなに多くの母親が就業していることは、今だかってなかった。現在 、幼い子供のいるカナダ女性のうち、70%がフルタイムまたはパートタイムで働いて いる。 ある者は必要に迫られて、ある者はそうしたいから、またある者はその両方の理由 で仕事を持つ。 私が知っている幸せな母親とは、仕事を持ち、なおかつ育児にも充分手をかけるこ とができる女性たちである。おそらく彼女たちは、毎日幼い子供と過ごすだけの孤独 感を埋め合わせるため、パートタイムの仕事に就き、子供がだんだん成長し、自立す るにつれ仕事を増やしていったのだろう。そして何を一番に優先させるべきか ― 子供に良いスタートを切らせ、親との接触を保ち、安心感を与えるということを頭に おいて、仕事を決めていった。 もちろん、これは恵まれた女性にしかできないことであるが、今回の調査ではこの ようなケースは取り上げられていない。 もうひとつ調査が見逃しているのは、私の友人が抜け目ない観察で得た「冷蔵庫に 食べ物が入っていると、子供ってすごく安心するのよ。これ、子供の人生観に関わる のよね」という事実だ。多くの女性が働く理由は、ずばり食べるためである。 理由が何であれ、働く女性は今回の調査が表している以上に、家庭や職場で革命を 起こしてきた。そして革命はまだ終わっていない。 また、別の多国間レポートによると、女性の上司は男性の上司よりもずっとオープ ンで、部下に良い影響を与えるという結果が出ている。女性はこのレポートを添えて 履歴書を出したり、フレックス・タイム制とか、もっと長い産休や社内保育所を要求 したりすべきかもしれない。 だが、二重の役割でボロボロに疲れ切った女性像のみに焦点を当て続ける限り、こ の勤労社会をいかにしてファミリー・フレンドリーにするかといった討論は脇へ流さ れてしまう。さらに、家庭内で何を変えていくべきかという議論も流されてしまう。 フェミニストの第一人者、グロリア・ステイネンは「男ができることは、すべて女 にもできると自覚すべきだ」と言った。 今、私たちは「女ができることは、男にもできると自覚すべき」である。 ステイネンはこうも言う。 「男が家庭で女と平等に働く日が来るまで、女は家の外で男と平等にはなれないだろう」 もちろんその日が来た時、私たちは楽園で暮らし、もうこんな調査をする必要はな くなっているだろうが…。
編 集 後 記
今回のHI会員に対するアンケート調査の結果は、統計の棒グラフでみると、HIの女 性とカナダ女性との意識の違いはあまり見られなかったと思う。どちらも、仕事を持 つことと、子供を育てることの板ばさみになって苦闘する姿である。 このアンケートで興味深かったのは、HIクラブメンバーのそれぞれの質問に対する コメントが千差万別だった点である。 私は、息子が生後7ヶ月ぐらいの時から他人に預けて、自分の好きな図書館司書の 仕事を続けている。質問2の“働く母親も安定した家庭を築くことが出来るか”と質 問5の“共働きは就学前の子供によくない”に対するコメントの中には、母親不在が 子供に及ぼす影響について幾つかの否定的な意見があった。限られた時間しか子供と 過ごしていない私が、後ろめたい気持ちにさせられたことは確かである。 しかし、子供は母親の愛だけに依存して育つものではないと思う。 男の子を過度の母親依存症にしないよう育てることは、タイム誌の記事の中で、ジ ュディス・ティムソンが述べている「男が家庭で女と平等に働く日が来ること」に近 づくための第一歩ではないだろうか。
出勤前の朝(夜もだけれど)、新聞は見出しくらいしか読めない。9月のある日、 その見出しのひとつを見た途端、今年のニュースレターはこれしかないと思った。早 速、編集委員の面々に電話。さすが、カナダ統計局発表に関する記事を切り抜いてい る人が何人もいて、やっと(アイディアがあり過ぎ)15周年のニュースレターのテー マは決まった。 時間が許せば、20代から30代の母親がほとんど、子育て真っ最中の「マミーズ」に もアンケートを頼みたい所だったが、今回はこれで良しとしたい。 今は日曜日の午後5時。今週に限って仕事を家に持ち帰るハメになり、さっきやっ とのことでコンピュータをオフにして下のキッチンに来たところだ。(何せ昨夜はTV 映画を見てしまったから。)まずオーブンの中のビーフの焼け具合を見て、編集後記 を書き、他のメンバーに電話をしてFAXを送りという具合。考えてみたら、クラブ始 まって以来ズーッとこんな調子だ。お陰で、何度お鍋を焦がした事やら。この頃は食 事の後片付けが夫から娘達に代わり、またー!などと言われている。 私達のニュースレターは駅のようなもの。一人ふと考えたり、夫婦や友達とワイワ イやったり、旅はゆっくり各駅停車で行きたい。そのうち大きな終着駅に着いたら、 そこから始発に乗り換えて又違った旅を続けたい。
今回、タイムの翻訳を受け持ってみて、筆者の意見と自分で考えていたことがほと んど同じだったので、とても興味深かった。 私もこの調査は、あまりにも表面的で性差別的な質問ばかりで、白か黒かを問いた だしているようで、気に入らなかったからだ。 でも、HIクラブメンバーのコメントは、それぞれ個性豊かで面白かった。 家族、特に二人の子供をプライオリティーにして、これまで仕事を調節してきた私 だが、やはり夫の理解やベビーシッターに恵まれたことを感謝すべきだろう。 これからも(愛する)ファミリーと(あまり好きでない)ジョブと(ほとんど収入 にならない)キャリアと(熱心すぎる)ボランティアのバランスを取りながら悪戦苦 闘していこう!
「お隣りに手紙を持って行ってちょうだい」と、母が紙をきれいに折りたたんで手の 平にのせてくれます。それを大事に持って行くと、中身をちらりと見たおばさんは「 まあ、どうもありがとう!」と、お礼にお菓子をくれて、ひとしきり中で遊ばせてく れるのでした。 ずうっと後で母から聞いたのですが、中には何も書いてなかったそう。姉が4才、 私が2才、母は三人目の出産を迎えて、てんてこ舞いしていたようです。白紙の手紙 を受け取ったおばさんは、素早く事情を察して、私達を預かってくれたのです。そん な風に私達の成長に一役買ってくれた隣近所のおじさん、おばさん達の顔を思い浮か べてみるとほのぼのとした気持ちになります。洗濯機も冷蔵庫も電話もない時代でし たが、あの頃の方が自然に近い形でもっと人間的に暮らしていたのじゃないかと思い ます。 今回、アンケートに答えながら、「女性の社会進出」が何かと話題になる以前に私 達を育ててくれた母親やおばさん達にも聞いてみたい質問だと思いました。
国際結婚をしたトロント近郊の日本女性たちが集まって始まったハーモニーインタ ーナショナルクラブも、今は日本語を話せる女性なら国籍、人種にこだわらず誰でも 入れる会と幅が広くなり、この会の主旨である異文化間コミュニケーションも柔軟で より強く育ってきました。 今年は15周年目という節目でもあり、日頃の活動を例年にもまして広く日系及びカ ナダ社会に公開し、還元したいものと思い、盛りだくさんなプロジェクトを組みまし た。まずスペシャルオリンピックへのボランティア活動、若い日系の母親たちの「マ ミーズ」の会設立を援助、会員間の親睦をより深めるための誕生会、よりアップデー トな情報交換が可能なインターネット電子メール及びホームページの開設、日本から の修練を極めた落語・漫才の公演を移住者協会、新企会と共催、香港在住のクラブ創 立者道智万季子氏による香港返還についての講演会、クラブ恒例のピクニック、「マ ミーズ」の移住者協会バーベキューパーティへの参加、新日系文化会館移転拡張支援 チャリティー・コンサート、カナダ初のアジア系女性判事としてオンタリオ州法廷で 活躍されている日系カナダ人、マリカ・オマツ氏による講演、毎月一回のモミジシニ アセンターへのボランティア活動、クリスマスパーティー、15周年記念アルバムの作 成、ニュースレターの発行など、その他にもいろいろ会として活動し、行事に参加し ました。多様文化社会のカナダでこそ、このように変化に富む活動が出来る我々は非 常に恵まれていると思います。又新しく誕生した「マミーズ」を“新しい組織が新し い人達を日系社会に連れて来てくれた”などと他の団体の方々が暖かく迎え入れてく ださいました。ハーモニーインターナショナルクラブは、これからも今までにも増し てこのすばらしいカナダ社会で、異文化間コミュニケーションの活動を続けて行きた いと思います。
HARMONYNEWS 1996 秋
ハーモニー・インターナショナル・ニュースレター No.17
中村マーク(JFS所長)
私たち家族の場合、医者からの診断を待つまでもありませんでした。父が記憶力を含め、精神的に衰えていくのを、私たちは知っていたからです。
しかし、父は自分の障害を隠そうと必死でした。巧みな社交術で、彼の友達はみなごまかされ、私たちは感心したほどです。父を訪問した友達は、私たちにこう言うのでした。 「あなたのお父さんは大丈夫ですよ。ただ、ちょっと忘れっぽくなっているだけですよ。」
でも母と私は、父がだんだんと退化していく様子を見ていたので、わかっていました。父が道に迷い始めた頃から、症状は深刻になりました。歩いて10分で戻るはずが、20分、30分とかかり、そして50分も姿を現わさず、私たちは心配でたまりませんでした。
やがて、父は何時間も行方不明になり、警察が彼を家に連れ戻してくれる事もありました。あとから私たちは、父が日系教会の理事会に行くために何時間も地下鉄に乗っていたり、自宅を探していつまでも歩き回っていたことを知りました。
しばらくすると、父は危険を冒してまで、外出する自信をなくしました。この時点で、父は自分の限界を認識してくれたので、私たちはほっとしました。多くのアルツハイマー病の人は、そういうことを認めないものなのです。父に以前は必要としなかったサポートがいるようになり、また主だった父の看護をしていた母にもサポートが必要になりました。
アルツハイマー病とそれにともなう痴呆症は、病んでいる当人はもとより、看護をする家族にとっても、失うものがあまりにも大きいのです。だんだんと精神が冒されていく様子を見るのは、むごいものです。病んでいる人の威厳を見いだすことも困難です。特にその人が、全くの別人へと変わっていくような時は。しかし家族間では、尊厳と愛情は、存在し続けるものです。
それでも看護をする側には、罪悪感や怒り、欲求不満のような否定的な感情が時々起こります。だからこそ、責任が重く肩にのしかかり、あらゆる看護をしている家族にとって、サポート・プログラムは貴重なのです。
アルツハイマー病が進行するに従い、いろいろな決定、時にはつらいことも決めなければなりません。母は父をできるかぎり家で看護したいと主張しました。そこで私たちは、父のためのホームケアや近所のシニア・デイケアのプログラムを利用しました。父はこれらを特別気に入ってはいませんでしたが、母に少しでも自由な時間を作るためには、必要不可欠だったのです。
しかし、やがて父は運動神経が冒され、母は一日一日の世話が不可能になりました。もはや施設での看護を考慮すべきなのは明らかでした。
統計上、私たちの寿命は長くなりつつありますが、カナダにおいて2021年までに、アルツハイマー病の患者は、現在の30万人から60万人に増えると言われています。
残念ながらアルツハイマー病は、これから先も大きな課題となるでしょう。まず、世界中に存在するアルツハイマー病の決定的な治療法を見つけること、そして、患者と看護する人達には、特効薬が見つかる日まで、適切なサポートとサービスを提供する必要があります。
私たち家族は、父の病状が悪化するにつれ、ますます必要となるサポートとサービスに充分恵まれました。ホームケアとデイケアプログラムを受けることができた上、父が車椅子を必要とし、最後に寝たきりの状態になった時、モミジヘルスケア・センターの援助の下で、父の文化的バックグラウンドに合ったナーシング・ホームに入れることができたのです。
しかし、将来は政府がサービスを削減する一方で、これらの需要が逆に多くなり、患者や看護人は、より困難な試練に直面するでしょう。現在の恵まれた状態が続くとは言えないのです。
トロントにあるアルツハイマー協会(TEL 416−322−6560)は、私たちにいろいろな忠告と援助をしてくれました。確かに必要な時は来るのです。助けが欲しくて手を差し伸べる時、助けてくれる友達が欲しい時。そんな時、アルツハイマー協会は心の友でした。協会は電話での相談に乗り、徘徊する患者を登録し、アルツハイマー病の問題を代弁し、他のサービスのホスト役でもあります。
また、協会はジャパニーズ・ファミリー・サービス(JFS)やモミジヘルス・センターのような日系社会の組織とも、協力的に働いています。なぜなら、アルツハイマー病に関わる患者や家族や友達が、いつでもサービスを受けられるように配慮しているからです。
アルツハイマー病のさらに詳しい情報が欲しい方は、日本の「ぼけ老人をかかえる家族の会」[〒802京都市上京区堀川丸太町下がる 京都社会福祉会館2階 代表・高見国生(たかみくにお)TEL075−811−8195]までご連絡ください。
(翻訳 S.Y.)
(原文) Living with Alzheimer's Disease Mark Nakamura Alzheimer's disease is a degenerative brain disorder that destroys vital brain cells. There is no known cause or cure for Alzheimer's disease. It can strike adults at any age, but occurs most commonly in people over 65.
Our family did not have to wait for a diagnosis from a physician. We knew that my father's mental abilities, including his memory, were deteriorating. But he would work so hard at hiding his disability, because he had such excellent social skills, that we marvelled at how well he managed to fool his friends. After visiting him they would say to us, "He's alright. He's just getting a little forgetful.* Except my mother and I knew differently, because we saw the progressive nature of the degeneration.
It first became serious when he started to get lost. At first his disorientation would cause him to turn what might normally be a ten-minute walk, into nerve-wracking twenty, and then thirty, and then fifty-minute disappearances. Eventually, his disappearances would be for many long hours, and we would learn, for example, when the police brought him home, that he had been riding the subway for hours trying to find his way to a meeting of the Christian Fellowship Committee at the Japanese United Church, or that he had been walking for hours looking for his house.
Soon he lost confidence and dared not risk venturing out of the house alone. In that regard we were fortunate because he recognized and accepted his limitations. Many do not. We knew then that he would need additional support he never previously needed nor wanted in his life. And so also would my mother, who was father's primary care-giver.
Alzheimer's disease, and its related dementias take a terrible toll not only on those affected by the disease, but also on their family care-givers. Watching the slow death of the mind is a horrible thing. It is challenging sometimes trying to find the dignity in the person affected by the disease when the person you once knew starts to fade from your view and is replaced by someone else, but the dignity and the love always remain. But there are negative emotions that sometimes remain in the hearts of those who have to care for those affected by the disease, including guilt and anger and frustration. That is why support programs for family care-givers, who must shoulder much of the responsibility and do all of the work, are valuable.
Depending on the nature of the effects of the disease, there are also a range of decisions, hard decisions, that have to be made. My mother insisted on keeping Dad home as long as she could. So our minds turned to providing her with support, including the provision of home care, and local senior's daycare programming for Dad, even though he did not particularly like it. However it was critical to create some free time for her.
But eventually he started to lose his motor control and my mother could no longer manage his day-to-day care. It soon became obvious that we would have to consider some form of institutional care.
Given the demographics, and given the fact that we are living longer, the number of persons affected by Alzheimer's disease in Canada will increase from its current number of 300,000 to 600,000 by the year 2021. Unfortunately, Alzheimer's disease will continue to present major challenges for years to come. First, there is the need to find a cure for a disease that strikes victims universally, throughout the world. Second, we must ensure those affected by the disease, and their care-givers, are provided with the appropriate support and services, until such time as a cure can be found.
Our family was blessed because we were able to access the necessary support and services as the natural progression of the disease increased our need for more and more support. We were able to obtain homecare and daycare programs when we needed them, and we were able to have Dad placed in a culturally appropriate nursing home, under the helping hands of the Momiji Healthcare Society, during his final years, when he was wheelchair and bed-bound.
But the difficulties faced by those affected by the disease may increase, because of government cut-backs to services and increases in demand for them. Nothing should therefore be taken for granted.
We are also fortunate to have organizations like the Alzheimer Society for Metropolitan Toronto (1-416-322-6560) who can provide us with advice and assistance in our time of need. And it is a time of need. It is a time to reach out and seek help. It is a time for finding helpful friends. The Alzheimer Society is a friend. The Alzheimer Society provides Telephone Counseling Services, a Wandering Person's Registry, advocacy on Alzheimer's disease issues and a host of other services. And, it works closely with agencies in the Japanese ethnocultural community, like Japanese Family Services and the Momiji Healthcare Society, because it is committed to providing accessible services to those affected by Alzheimer's disease, and their families and friends.
For additional information on Alzheimer's disease, individuals can also contact the Association of Families Caring for the Demented Elderly Japan. Kunio Takami, Official Staff, Maruta-cho, Sagaru, Horikawa, Kamikyo-ku, Kyoto 802, Japan (075-811-8195)
老いゆく親への想い モガール和子(HIC会員) この夏、3年半ぶりに両親に会いに帰郷した。というのも、友人から「日本に一人いる母親に会いに毎年帰国している知人が、今回帰ったら『どなた様ですか』と尋ねられ、実の娘を判断できなくなるほど、年老いた人の一年はこんなに変わるものかと大ショックを受けた」という話を聞いたからである。それに、まだボケていなさそうな両親と一緒に旧盆を迎えたかったからでもある。
少なくとも3年半前の両親は元気で、それぞれの生活に追われかなりしゃんとしていた。私が帰郷した時、86歳の父はちょうど肺炎で入院中のため病院で会ったのだが、ベッドの上で「明日退院するから」と自分勝手に決め、自宅でのやりかけの仕事を気にしていた。家族のものは、一日の入院費のほとんどが老人医療保険でカバーされ、自己負担が700円ほどなので、完治するまでゆっくり入院していたらと言う。お盆前には退院できたが、父は一回りも二回りも小さくなって見えた。ところが、退院翌日からは長男に譲った店の手伝いで、55ccのオートバイに乗って配達をし始め皆を驚かせた。
退院後、3週間目に一通りの検査があるので、耳の遠くなった父について病院へ行った。病院の待合室はほとんど老人ばかり。「どこも悪くないんだけど、家で冷房ばかりかけてると気兼ねすっから、病院の待合室にいた方が涼しくていがす」という老人医療の無駄使いのお婆さん。父はというと、肺のレントゲン、断面レントゲン、血液検査、ドクター待ちと朝の9時半から病院に行って、終わったのは2時に近かった。若い人が本当に具合が悪くて病院に行くとなると、一日がかりで休暇を取らなければいけない位、老人ペースで病院が動いている様だ。
母はというと、早朝5時半に鳴る町のチャイムよりも早く、まだ薄暗い4時半頃に起き出し、自分の道楽で作っている野菜や花畑に行きひと仕事をし、朝食の始まる頃に戻ってくる。以前は、一輪車を私より早足でサッサッと押していたのに、今は一歩一歩踏みしめるように歩調が遅くなってしまった。いろいろな種類の野菜や美しい花々のある土いじりのできる畑は、「私の一番の居心地の良い場所」と言い切る母は、今から40年以上も前に医者に助からないと言われた癌を克服した気丈夫な83才。
私の故郷は本当に小さな町で、ほとんど家に鍵もかけず外出できるほど顔見知りばかりの集まりである。そして、私の実家のように曾祖父母、祖父母、若夫婦、その子供達と四世代が一つ屋根の下に暮らしている家が数件もある。核家族と言われて久しいのに、ここは血のつながった者同志しっかりと結びついて上手くいっている。
いつの世からそう決まったのか知らないが、宮城県にある私の町では長男が跡を継ぎ、ほとんどすべての財産を相続し、その代わりに親の死ぬまでの面倒を見るといる暗黙の了解がある。先祖代々しごく同然、多世帯がひとつの屋根の下に暮らしてきたからなのかもしれない。
旧盆の8月13日には、母の育てた花を仏前に供え、先祖のお位牌をこの日のために特別に作られ飾られた盆棚に並べ、お祈りし、そしてまさしく親子四世代そろってお墓参りをした。お墓の中に隠れてしまった御先祖様は、子供達、その子供達、はた又その子供達に看取られ、お参りされ、にぎやかで結構だなんて案外思っているのでは ― 。
「今度は私の番だね」と誰に言うともなく、墓前でお線香を上げる母の手はやわらかさの中に、83年の母の人生を物語る深いしわがいくつもいくつも重なってみえた。
父さん、母さん、ありがとう。 貴方達の子でホントにホントに良かった。
三つのシニア・ホームを訪ねて サンダース宮松敬子 (HIC会員) 最近仕事がらみで三ヶ所のシニア・ホームを見る機会に恵まれた。一つ目は日本人にはもう既にお馴染みの「モミジ・シニアセンター」(スカーボロ)で、ここは自分の身の回りの事は自分で出来ることが入居の条件であることは周知の通りである。二つ目は一般のカナダ人シニア向けで、日常生活に誰かの介護が必要なナーシング・ホーム「レカイ・センター」(トロント)。そして最後は、その両方の機能を備えたうえに、老人専門病院まで揃っているユダヤ人のための「ベイクレスト・センター」(ノースヨーク)である。
もちろん入居してみれば、どこもそれなりに「もう少しこうあって欲しい」というシニアからの要望はあるのだろうが、外から見学して話を聞いた限りでは、それぞれ設備が充実しているうえ、何よりも若い職員たちがテキパキと働いている姿が印象的であった。
「モミジ・シニアセンター」に関しては、ボランティアその他で関わり合いを持っている人、また一度や二度何らかの理由で足を運んだ人も多いことと思う。センターはまだ出来て四年しか経っていないので建物自身が新しい事もあるが、何より日本的雰囲気を持った設計が嬉しい。まず入口を入るとすぐに見える水の流れが人の気持ちをホッとさせるし、各種のアクティビティを楽しめる中二階の天窓や木の床、そして竹の植え込みも、日本のどこかでこんなインテリアを見たような気にさせてくれる。清潔ではあるにしても、ただ機能一辺倒のプラスチックやコンクリートではなく、人間の心をなごませる「木」が多く使われているのが、他のシニア・ホームでは余り見かけず暖かさを感じる。
今は入居者の20〜25%が非日系人の居住者ということだが、せっかく「日系人、日本人の多いシニアセンター」と銘打っているので、いつまでもそれが続くことを心より願っている。
それは一方から見ると排他主義だと言われる恐れもあるが、新移住者や二、三世たちが一生懸命集めた寄付金が、経費の20%(五百万ドル)にも達したことを思えば失いたくない日系人の施設である。
それに市内には中国人、イタリア人、ユダヤ人向けなど、同じようなシニア・ホームもあり、そこへ行ってみると、どこもとことんエスニックの雰囲気になっている。その一つが「ベイクレスト・センター」である。
ハイウェー401の真南でバタースト通りにあるこのセンターは、その規模といいしっかりした運営といい、もう半端ではないとしみじみ感じさせられる。
もちろん人口比からいったら、当地のユダヤ人は日系人など問題にはならない程多いからではあるが、入居しているシニアの家族をボランティアとしてドップリと漬からせ、特にファンドレイジングなどに力を入れるそのやり方も実に徹底している。
広大な土地にシニア・ホームから始まって、死に至るまでのすべてのケアが出来るような設備が整えられているが、「無いのはフューネラル・ホームだけですね?」というと「その通り」との返事が返ってくるのを見ても分かるように、そこはホスピスまで揃っている一大センターなのである。
私が案内した日本からの見学者が「老いを迎える不安はありませんか?」とボランティアのツアーガイドをしている、飛び切り元気な六八歳の女性に聞いたら「いいえ、これだけ設備が整っているので心配する事は何もありません」とニッコリと、しかもきっぱり言ったのが印象に残る。
まだ「自宅の畳の上で死にたい」という思いの強いと言われる日本人の、まして東北地方の小都市からの見学者たちにとっては、このセンターの余りの徹底振りには驚いたようだ。
もちろんここは、門戸は一般のカナダ人にもオープンされているとはいえ、食事がユダヤ人のコーシャー・フードが主となれば、他のエスニックのシニアは入りにくいだろう。
最後のホームはトロントの街中にある「レカイ・センター」。ここはいわゆるナーシング・ホームであるから、もう身の回りのことが自分で出来なくなってしまったシニアたちであるが、このホームの特徴はそれこそカナダの国策にふさわしく、27ヶ国の人が入居していることである。そしてその国々のカルチャー・イベントを大切にし、毎月何らかのセレブレイションを行うという気の使いようがほほえましい。
暑い盛りの八月に訪ねた時は、日本人の入居者はいなかったが、カタコトの日本語をしゃべる韓国人の男性が入っていた。「キムチが食べたいが、辛いので咳き込んでしまうから駄目だ」といかにも残念そうで、出来ればこっそりと差し入れでもして上げたい気持ちになってしまった。
消化の妨げにならないように、ほとんどが柔らかくマッシュした食べ物や流動食が多いようだが、それさえもう一人でうまく口に運べずに、首に掛けたよだれかけが食べ物だらけのシニアたちも多く、そんな光景を見慣れていない者には直視するのが辛い。
穏やかで心安らかな老後を送り、その後は他人に迷惑をかけない死に方をしたいとは誰でもが思うことだろうが、自分で命を断たない限り、自分の死を自分で選べない人間の宿命とは一体何かと、一つ一つの場所を回りながらしきりに考えさせられてしまった。
「『老い』は焦らず素直に受け入れて付き合って行くよりほかはない」とどこかで読んだ言葉が脳裏を駆け巡る。
日系二世万歳! コズロブスキー阿部美智子(HIC会員) この年になって、つい最近「白和え」の作り方を教わった。小さなすり鉢に白胡麻を入れてすり始めるとプーンと香ばしい香りが漂う。これに味噌と砂糖を加えてすって、豆腐を加えてさらにすって、茹でたグリーンビーンズやアスパラを軽く和える。こんな優れた料理法がほかにあるだろうか!
私の料理の先生は日系二世のトシさん。小学校のバザールで飛ぶように売れるチョコレートカップケーキ、決して失敗しないアップルケーキ、簡単でおいしいビール漬け、お客様に喜ばれるカリフォルニア巻き、めずらしい百合の花ときくらげの一品…トシさんのお宅におじゃまする度にレパートリーが増えて行く。電気釜を使わずにおいしいご飯を炊く方法も教えて頂いた。強火にかけて煮立ってきたら火を止める。10分置いてまた強火にかけて吹いてきたら火を止め、10分置いて、はい、でき上がり。絶対焦げることがない。1インチ厚さの鮭を焼く時は450度のオーブンで皮を上にして10分、そのあとブロイルで3分。とっても合理的。かと思うと、庭に植えたこんやくいもから自家製のこんにゃくをこしらえたり、味噌や沢庵を手作りしておられる。
「いい方達がそばにいて安心したわ。」昨年カナダを訪れた母が何度も何度もそう言って帰って行った。なんと我が家のお向かいとその二軒隣はどちらも日系二世の御家庭である。どちらの御夫婦もお孫さんのいらっしゃる年代で悠々自適の生活を楽しんでおられるのだが、私が身に染みて幸運と感じるのは、そのどちらも大変魅力的で人生のお手本にしたいほど素晴しいカップルだからである。
中でも先述のトシさんには敬服するばかり。お隣の独り住まいの老婦人のために買い物や銀行に行ってあげたり、いつも何かと手助けをしていらした。この老婦人がコンドミニウムに移ってからも遠くまで何度も足を運んであれこれ面倒を見ていらっしゃる。それから、知り合いのお年寄りの通院の送り迎え、独り住まいの人には夕食にいらっしゃいと気軽に声を掛けてあげたり、自宅のキッチンを解放して何人ものグループにお菓子作りを教えて下さったり…。だからトシさんのお宅には実に様々な人々が集まって来る。そして誰が来てもいいようにいつも食べ物がいっぱい。子供の散歩がてら立ち寄ったりすると、大きな鍋に野菜がたっぷり入ったスープをかき混ぜていたり、アップルパイをいっぺんに四つも焼いていたりする。ミートソースもラザーニアも三食分、四食分たっぷり作って地下にある三台の冷凍庫と二台の冷蔵庫に保存される。
我が家にもそんなトシさんのお人柄の恩恵は春の雨のように降り注いで、一口に言えば、もうお世話になりっぱなしの状態である。二人の息子をよく預かって下さったので、三才半になる次男はトシさんとその御主人のジョージさん(トシさんに負けず劣らずの人格者でいらっしゃる)をつい最近まで「ばあちゃん」「じいちゃん」と呼んでいた。ある時私が病気で寝込んでいると、子どもに夕食を食べさせてくださった上に、お粥に梅干しを添えて届けてくださった。カナダ生まれのトシさんが作ってくださったまだ湯気のたっているお粥に、私は思いがけなさと感謝の気持ちで涙があふれそうになった。
トシさんもジョージさんもカナダ生まれで、日本は二度三度訪れたことがあるだけというのに、普通の日本人と区別がつかないほど日本語が達者で、日本の伝統や行事をよくご存じである。そして日系人のどなたにも共通な誠実さと勤勉さに加えて、人一倍の義理と人情を持ち合わせておられる。困っている人に手を差し伸べることが何気ない日常生活の一部になっているのだ。将来、お金と時間に余裕ができたらボランティアしようなどと考えている私には、目からうろこが落ちる思いがする。下の子がよちよち歩きの頃、まだ車が一台しかなくて、お散歩以外はどこにも行けないほど行動範囲が狭くなっていた。そんな時、よくトシさんが日本食品店や中国食品店への買い物に誘ってくださったのが大変ありがたかった。そうだ、私も自分の出来る範囲で小さな親切を自分の周りの人にしてあげればいいのだ、とトシさんに出会ってから気が付いた。
が、それよりも何よりも私がすごいと思うのは、二世の方々がそういう日本人が昔から大事にしてきた美徳をごく自然に(そして奥ゆかしく)実行していらっしゃるだけでなく、その上に更にカナダ人の、つまり北米の、合理性とタフさを兼ね備えていらっしゃることだ。
戦前、戦中と苦労を重ねながらも、次の世代を立派に育て上げられた一世の方々に私は深い敬意を捧げたいと思う。同時に、戦争中のつらい体験を乗り越えて雄々しく羽ばたいて行った二世の方々に強い感動を覚えずにいられない。一人一人が立派に生きることで日系人、そして日本人の地位を高めて下さった。私たち戦後移住者はこの恩恵にどれほど預かっているか計り知れないと思う。
この二組の素晴しい二世カップルとめぐり合ったことで、私の中で「日系二世=市民の鏡」という公式が出来上がった。すなわちカナダの日系二世とは日本人とカナダ人の最も良い所が絶妙にミックスされて誕生した「理想的な世代」なのだと。私たちの子供達もこのように育ってほしいと思う。そして、この素晴しい世代の方々と出会い、その人生に学ぶ機会をもっともっと増やしていけたらと思う。
「老母へ送る娘のエール」 B.H.(HIC会員) 「私が情の薄い母親やと言うて博子は長いこと私を恨んでねえ、あんたたちに会いとうても遠いところに住んどってやし…」母が私の娘に話しているのが聞こえて思わずドアの外に立ち止まってしまった。
「私が生まれる前に父親は戦死して、私の母は身分が低い所から嫁いできた嫁やというて、実家に戻されて、それっきり消息を断ってしもうたんですわ」娘は初めて聞くようなふりをして、「おばあちゃん、随分つらかったでしょうねえ」とあいずちをうっている。「親の愛情を知らんと育った私が情が薄いと言われても…」とめどなく母は久しぶりに会った孫娘に甘えて訴えているようだった。
明治34年3月生まれ、(昭和天皇と同い年、というのが何故か母の自慢であるらしかった)当年とって95才と7カ月。明治、大正、昭和そして平成の世も8年となっても生きながらえている。豊岡、神戸では水害で家を失い、戦争で二度焼け出され、そしてまた先年の阪神大震災によって、母の終の住みかであった神戸の家は全壊、命からがら丹波の老人ホームに避難した。
母が今住んでいるそのホームは丹波の篠山という所にある。丹波の田舎といっても今年の6月に複線になったので大阪から特急で1時間弱で行ける。この初秋にはちょうど黄金色の稲穂が重たげに垂れ下がり、たっぷりと身の入った枝豆が彼岸花の咲き乱れるあぜ道に無造作に投げ出されている、松茸や大きな大きなくりが採れる山間にあるホームの庭の椅子に腰を掛けた母は「ここはほんにええとこです」と言う。60年余りも都会暮らしをした人とは思えないほど、母の姿はその郷愁をそそる景色の中にしっくりと収まっている。
母の介護が出来ない、(前述のように何と言ってもこちらには来てくれなかった)私のせめてもの罪滅ぼしのつもりで始めた日系老人のためのボランティア活動も細々ではあるが今年で7年になる。グリーンビュー、モミジの90才以上の方(主に女性)には特別の思いを寄せている。この方々一人一人が母と同じくありとあらゆる試練を経て営々と生き続けてこられた、そして現在は比較的穏やかな老いの日々を過ごしておられる。母と同じようにかなり戻っている人もいらっしゃるものの、(母の場合はまだらボケ、勝手ボケ ― 都合の悪いことは忘れる)幻覚症状、徘徊、人格欠損そして寝たきり、こうした悲惨で絶望的な状態でないのは救われる思いがする。
「人間は頭も体も動かしてたら損(いた)むのが遅いと思います…」母は兄が亡くなるちょっと前まで家事をこなしていた、そのころもう90才を越えようとしていたろうか、今や日夜忍び寄る老いの影におびえて、若返りに腐心するばかりであまり頭も体も動かしているとは言えない私にとって、この至言こそが母から私への贈り物と思わねばならないだろう。
この3月肘を複雑骨折して、医師から強く手術を勧められたにも拘わらず、断固断わり、すっかり自力で治癒させてしまった、わが母は真に健在である。「父や兄に苦労ばかりさせられて、何一つぜいたくもしないで何が楽しみで生きているの」といつも母を哀れんでいた私であるが、今となってはこの強靭な魂を持つ最後の明治の人に脱帽して、「お母さん、しっかり!…こうなったら絶対に一世紀を越えても生きてね」とエールを送り続けようと思う。
親孝行、カナダ版 S.H.(HIC会員) 昔から親孝行したい時には親はなし ― と言われるが、たとえ親は健在でも遠く離れて住んでいては日常レベルでの細かい世話はできない立場の私達にとって、次にご紹介するお話は羨ましいような条件に恵まれていると思えるかもしれません。しかし少しでもどなたかのご参考になればと書いてみました。
トロント市内に住むK氏は、二年前に父親を亡くされ、現在84歳になる一人住まいの母親のお世話をしておられる。父親が亡くなられる前の五年間は盲目の不自由を経験。その間、看病する母親にかかるご負担は大変なものだったと想像する。老衰で父親を亡くされた一年後に、今度は母親の妹にあたる叔母をガンで亡くされた。K氏は子供のない叔母のため、病院の送迎はもとより、ハウスキーパー、ナース訪問の手配、亡くなる直前は母親の家に連れて帰り自宅看護。老人には“病院”の環境を嫌う人が多い。幸いまだ元気な母親と週三、四回のハウスキーパー、ナース訪問で手厚く看護され、病気発見から八ヶ月後に叔母を看取られた。その後、84歳になる母親の気落ちが激しく、氏は一ヶ月程は母親と生活を共にされた。
その後も日を決めてマーケット、銀行、美容院などの送り迎えを続けておられる。週末には映画好きの彼女のために一週間分のキャプション付きビデオを借りたり、近くの図書館から大きな文字の本を借りてきては一人住まいの母親を慰めておられる。家中の電気製品は使い易いように大きく簡単に表示、床には段差がないように、又はカーペットや電気コードでつまずかないように、至る所に工夫がなされ気配りが優しい。
気分転換にと、折りにふれて散歩に、ドライブにと連れ出す。バラの咲く頃はこの公園、湖の凪いだ日はビーチにと。住み慣れた近所を散歩するだけの母親にとっては昔話が尽きないそうだ。確かにK氏の場合、車で数分という距離、比較的時間が自由になる職業、恵まれた経済事情と羨ましいような条件が備わっている。しかし、氏が一番心がけていることは、近年とみに耳の不自由な母親とのスキンシップだそうだ。幼い子とのスキンシップの重要さは唱えられて久しいが、老いゆく親とのスキンシップの大切さはあまり聞かない。そしてどんなに些細なことでも、噂話でも耳を傾けることだそうだ。フンフンとうなずくだけでもよい。大抵の場合、耳の遠い老人との会話は一方通行の場合が多いのだから。私達日本人にとっては、hugしたりすることは気恥ずかしいことであるが、そっと肩に手を置いたり、背を支えたり、ほんの少しの触れ合いでもよい。殊に男性諸氏には照れ臭いことかもしれないが ― 。
日本とカナダではスキンシップもままならない訳で、郵便、電話の手段に頼る他ない。カードを送ったり、短くても回数を多くすることが大切だと思う。ご両親がカナダに住んでいる人の場合、最寄りの市の係と連絡を密にして、無料または割安のサービスを利用することをおすすめしたい。K氏いわく、自分の母親だから妻に負担をかけるより、出来る限り自分で世話をしたい ― と。
編集後記
最近、友人との会話に子供の事よりも、よく親の話が出てくるのを感じます。ハーモニー・インターナショナル・クラブ(HIC)の会員のほとんどは子育ても進行中なのですが、かつて自分を育ててくれた親が段々誰かの手助けを必要として来ているのをひしひしと感じてもいます。親であれ誰であれ、精一杯人生を歩んできた先人の方達には、少しでも心豊かな高齢期を送って欲しい。そんな想いを込めて、今年のニュースレターは「老いゆく親への想い」と決め、久しぶりで会員の原稿を中心に編集してみました。
ひいては自分も経験する高齢期には、「経済、健康、生きがい、そして情報」が必要と言われます。アルツハイマー病に罹ったお父様とご家族の姿を、現在のトロントの福祉・行政と共にご紹介頂いた中村マークさん、淡々とした中に感動すら覚えました。御寄稿、本当にありがとうございました。また、基本的なトロントの情報として、フリーランス・ジャーナリストでHIC会員であるサンダース宮松敬子さんの「三つのシニア・ホームを訪ねて」は大変参考になると思います。原稿に、翻訳に、編集に、広告集めに、読み合わせに、と今年も多くの会員の奮闘があってニュースレターが出来上がりました。皆様ありがとうございました。お陰様で、保存版と言えるほどの内容になりました。毎年、気持ち良く広告を下さる方々にも、改めて深く感謝申し上げます。
HICも年を重ね、来年は15周年になります。学生のクラブでは、とてもこんなに長くは活動できないでしょうが、いつの間にか私たちもトシを取ってきている訳ですね。でも、この間、一世デーでお目にかかった103才の方に比べたら、まだまだ“若輩”。これからも宜しくお願い致しま〜す!
尚、今年の秋、HICはロイヤルオンタリオ博物館の日本コレクション担当者、ヒュー・ワイリー博士のスライドと講演“日本と私の幸運な出会い '63”を行ないました。参加者は第一言語が英語の方、日本語の方半々で、講演後も和気あいあいと交流を楽しみました。
あっという間にもう年の瀬です。 皆様、どうぞよいクリスマスと新年をお迎え下さい。 ハーモニー・インターナショナル・クラブ会長 クリプシャム晴江