カナダに10年住んだあと、香港に移ってちょうど10年たちました。 今回、バンクーバー経由でトロントに来たのですが、まず、バンクーバーに着いて驚いたことがあります。トイレに紙がある(!?)。トイレットペーバーだけでなく、手を拭くぺーパータオルまで置いてあるのです。カナダの国の豊かさというものを感じました。しかもトイレはきれいになっています。
トロントでは友人宅に滞在したのですが、ここのエレベーターのドアがゆっくり閉まるんですね。中の人が「CLOSE」のボタンをすぐ押さない。香港では、人が乗り降りするときに必ず中の人が「待ってました」といわんばかりにすばやく「閉」ボタンを押します。気持ちに余裕がないのでしょうか。 地下鉄でも、香港では乗る人と降りる人がぶつかり合ったり、つねにせかせかしています。トロントの地下鉄はゆったりしているし、乗客の表情も穏やかですね。「ゆとり」が感じられます。
携帯電話の普及がめざましいのも香港の特徴です。電車の一車両の中で駅から次の駅までの間に携帯電話のベルの音が4、5件は耳に入ってきます。うるさいくらいです。 私は歩く速度はもともと早い方ではなかったのですが、トロントの町角で歩いていると、無意識のうちに前の人を追い越しているんですね。香港で慣れてしまったのでしょうか。
このように、カナダに来て、ほんの短い間に香港とカナダがこんなに違うものかと改めて感じ、カナダを再発見したしだいです。
香港という所は、外部のひとには大きな経済活動だけが取り上げられているのではないかと思います。 今年は返還の年ということで世界中から香港が注目されています。とくに返還日(7月1日)に向けて世界中からマスコミ関係者が何千人と取材のため香港にやって来ました。各国の報道陣がカメラを抱えて動き回っている光景があちこちで見られました。カナダのCBC記者にも会いました。これほど香港が注目されたのは、おそらく歴史上初めてだと思います。
香港が注目されることは私にとってはうれしいことですが、トロントに来てみて香港の特異性が大変目につきました。これを機に香港は考え直さなくてはならないのでは、と感じました。
ネガティブなマスコミ
返還当時の香港の様子をお話ししましょう。香港は返還を祝って5連休と、香港の歴史上珍しく長い休日が重なりました。マスコミの方々の話を聞いたり、日本や香港の新聞を読むと、中国への返還に関わる政治的あるいは歴史的意義を大きく取り上げているのが目立ちました。
香港は中国に返されたあと、悪い方に向かっていくのではという心配、そして将来への期待と不安といった、どちらかといえばネガティブな面が強く出ていると私はマスコミの報道から感じました。
しかし一般の香港市民は、返還は単なる儀式であって、自分たちの生活は何も変わらないと考えている様子でした。むしろ5連休はお祭りだということで、返還式典はテレビで見て、そのあとは皆でパーティーをやって楽しもうといった雰囲気でした。外から見た認識と実際の香港市民の心境との間にズレがあると思いました。 そう言えば、あるマスコミ関係の人と会ったとき、「記事を書くには、ネガティブに書くと面白い」と話していました。 返還日の真夜中に中国の軍隊が国境を越えて入ってきたとか、江沢民主席来訪の際民主流のデモがあったとか、中国の脅威を全面に打ち出した報道が多く見られました。イギリスが出ることによって香港の経済、政治的自由が奪われるのではないかと懸念するむきも少なくなかったと思います。 ところが香港市民にそのことを聞いてみると、「私達の生活は何も変わらない。むしろ、これをビジネスの良いチャンスにしたい。中国側とうまくやっていくことによって香港の将来をもっと良い方向に変えてゆけるのでは…」とポジティブな見方をする人が結構多いのです。このあたりにもズレがあるような気がします。
真夜中12時すぎの返還式典で、英国旗が下がって中国旗があがりました。この模様をテレビで見ました。 香港にいると、国という意識があまりありません。だから、あのようなフォーマルな形で国旗を見にすると、香港の人々は改めて、今までイギリス領だったのが中国領になったのだと印象づけられたことでしょう。
式典中継を見ていて、日本人として私が感じたのは、全体に非常に中国色が濃いということでした。江沢民主席をはじめとするお偉方が座るひな壇の席順、使う言葉が北京語、「熱烈歓迎祖国復帰」を強調したスピーチの内容、スピーチの途中で話し手自身が拍手を入れる…といった具合です。 香港特別行政区(特区)の董建華長官の就任演説の際、江沢民主席が祝辞を述べ、「一国二制度を必ず守る」と自信ある態度で何度も強調していました。これで、香港人に安心感が伝わったのではないでしょうか。彼のスピーチには、パッテン総督やチャールズ皇太子のそれと比べて明るいムードがありました。
放任主義の経済
初代行政長官に就任した董建華氏は「施政方針演説」ともいうべきスピーチを広東語で行いました。香港が現在抱えている問題を列挙して、これらに取り組んでいく姿勢を明らかにしました。
香港にはもちろん問題がたくさんあります。その第一が住宅問題です。 私が香港に移ってからこの10年間、不動産価格のめちゃくちゃな上昇ぶりを見てきました。最近まただいぶ値上がりが激しくなり、投機活動が活発になっています。日本のバブルではありませんが、一年に5割も値上がりするのはやはり危険だと感じます。しかし香港では皆がおカネもうけのゲームを楽しんでいるという感覚があって、こういったものを規制すると、香港の良さが消滅してしまうのです。
おカネもうけに走るのは決して良いことではないのですが、持てる人も持たざる人も自由な環境を生かしてどれだけ自分ががんばれるか。こういった夢のあるところが香港だと思うのです。
次に教育問題。香港ではまだ公立校では中国語が主です(もちろん英語で教育している学校もあります)が、今後、人材を育成するため中国語、英語のどちらかにすべきか父兄の間でもめています。 こうした中で、今後は北京語で教育した方がいろいろな意味で有利だろうといった意見もあります。 香港人の間では、このごろ、言われもしないのに皆で北京語を勉強する風潮が出ています。北京語の先生を雇ってオフィス内で社員を教えている会社も増えています。中国の影響がこのような形でも表れているのです。
董建華長官の演説の中でもう一つの目玉となっていたのが福祉問題です。 香港の福祉制度はカナダとは比べものにならない、とても程度の低いものです。老人の方々は家もなく一部屋に二段ベッドが何台もおかれたような所に住んでいます。毎月の手当てが2〜3千香港ドル(カナダドルで約500ドル)しか出ない。しかも個人で年金に加入している人は少ないですから、老人の生活はみじめです。 香港政府には剰余金が多くあるのにあまり福祉にカネを使っていないと言われます。日本やカナダのように赤字財政ではないのが大きな驚きです。要するに政府が小さくて、福祉にカネを使っていないのです。 ですから人々の生活は、自由な環境の中で自分で自分を守らなくてはなりません。生活は厳しいし、下手をすると何も保証のない生活が待っています。けれども、その一方で、やれる人は自由に経済活動をすることができます。会社を作るのもおカネはかからないし、ビジネスチャンスはあちこちにあります。 もちろん、良い面と悪い面がありますが、今の香港の中ではむしろこのような自由な放任主義の経済の方が好まれていると思います。
低い税金が励み
香港では今、中国の資本が15%を占めています。日系企業もだいぶ進出していますが、香港は生産基地ではないので、コストが高くてとても維持できません。そこで工場は香港の外に出て行ってしまうのです。すぐ隣の広州や深圸では日本を含む外国の資本による工場などが増えています。
では、何が香港に残るのかというと、金融業、不動産業、サービス業、貿易業などです。簡単に言ってしまえば「香港はバーチャルシティーになった」ということです。香港で請け負った仕事を中国で生産して、そしてまた外に出す、というパターンのビジネスになっていくのです。
カナダは税金が高いので知られていますが、香港はご存知のように、税金がとっても低い所です。法人税で16.5%。個人の所得税は最高15%です。しかもキャピタルゲイン(資産売却所得)は法人、個人とも無税です。利子税もありません。お金持ちにとってはこんな良い所はないと思います。 今のところ、世界中を見渡してみて、香港ほどビジネスチャンスが多くて、しかも税金が低くて自由にさせてくれるところはないのではないでしょうか。 税金が高いと意欲がそがれることがありますが、香港ではもうければもうけるほど自分のものになるということで励みになっているようです。それだけみんな自己責任で生きているわけです。 政府に老齢年金や厚生年金はないので、自分がおカネを貯めて自分の身を守ることになります。落ちこぼれというか、みじめな生活を送る人も出てきますが、資本主義の考え方を受け入れざるをえないのが香港の人の現実だと思います。
カナダにいらっしゃる方々は、香港のような社会がいいか、それともカナダのようにのんびりとゆとりを持って暮らすのがいいか、どうお考えですか。 私はよく日本の人に質問されるのですが、私としては生活の質が高いという点でカナダは魅力的ですが、香港のエネルギッシュなところも捨てがたいと答えています。 私はカナダと香港というたいへん対照的な国にそれぞれ10年間住んでいるのですが、社会が変化するということを強く感じるようになりました。香港の過去10年の社会の変化には目を見張るものがあります。そして今後の50年は予測しがたいものがあります。人々の考え方(意識)も変わるでしょう。 香港の人々はチャンスを生かして何かやろうといった独立精神が強い。香港には明るい将来があると私は思います。(文責・色本信夫)
道智万希子(どうち・まきこ): 兵庫県姫路市出身。津田塾大学卒業後、筑波大学で修士号取得(地域研究研究科)。1977年カナダ政府の招へいによりヨーク大学留学(社会学専攻・修士号)。79年帰国、東京の世界経済研究所勤務。香港出身の方和フェリックス弁護士と結婚。80年カナダ移住。トロントで大学、州政府、連邦政府のリサーチにかかわる。その間、ハーモニー・インターナショナル・クラブを創立。87年香港に移る。現在、クーパーズ&ライブランド会計事務所に勤務。ご主人は中国関係の弁護士業にたずさわっている。16歳と13歳の娘。長女は今、米ニューハンプシャー州の高校に留学中。